第63話:何かが一つ進んだ夜

 

 頭上から尋常じゃない規模の魔力を感じた。雨乞いの魔女・エレノアを彷彿させる魔力量だ。誰によるものかは言うまでもない。そしてこの尋常じゃない魔力と戦っているのがアルジェブラだ。


「アルジェブラさん、本当に大丈夫ですかね?」

「魔女と何度も戦って生き残った女だ。そう易々やすやすと死なんだろう。実力だけなら一級騎士に並ぶのだからな」


 アルジェブラは良い人だから死んでほしくないけど、魔女が相手では一級騎士だって簡単に死んじゃうからわからない。でも身をていして逃がしてくれたんだから私たちも頑張ろう。彼女の献身に応えなければ。


 隠し階段から学院の地下に入り、道なりに走りながら下を目指した。頭上から魔力のぶつかり合うような気配が何度もする。戦っている気配が感じられるうちは安心だ。本当に怖いのは学院が静かになったとき。そうなる前にメルメリィ教授の本体を探そう。

 いくつかの角を曲がった先に大きな階段が見えた。横幅は講義室ほどもあり、天井は高く、底は暗がりで見えない。左右の壁に燭台が灯っているが、階段の横幅がありすぎるせいで光量が足りておらず、足元も満足に見えないほどの暗闇に包まれていた。


「こんなに広い階段は初めて見ました」

「私が前を歩く。メヴィはそばを離れるな」


 エマの後ろに付いていきながら階段を降りる。こうして見ると大きな背中だ。鎧のおかげで私の体がすっぽり隠れてしまう。なんとなく彼女のマントを引っ張ると怒られた。気が散るらしい。


 長い長い階段をおりた先に、これまた大きな扉があった。古びた取手にシャルマーン貴族の紋章が刻まれている。両脇に萌える豪華な燭台のおかげで扉の周囲だけは明るい。よく見ると扉に描かれているのは模様ではなく魔導回路だ。鍵の代わりに魔導回路を使うのは学院ならではだと思う。


「解錠できるか?」

「試してみますが、壊したほうが早いかもしれません」


 一目で高度な魔導回路だとわかる。カタビランカの水門なんて比じゃないほどに。研究者であり魔女であるメルメリィが作ったのかな。私だって魔女の弟子だけど、魔導回路が専門ではないから解錠は難しい。私は破壊が本分だもの。

 軽く魔力を流すと、まるで生き物のように模様が動いた。魔導回路がだんだんと不穏な光を帯び始める。私はすぐにまずいと感じた。エマも同じらしく、私たちは同時に扉から離れた。


「メヴィ!」


 大きな爆発音と共に扉が吹き飛んだ。腐敗の魔力が回路を破壊し、解錠するはずの力が暴走したのだ。エマが盾で庇ってくれたから無傷だけど、直撃したら大怪我を負っていただろう。大きくへし曲がった扉が爆発の威力を物語っている。


「柱が頑丈で良かったですねえ。一歩間違えれば天井が崩れて生き埋めでしたよ」

「こんな罠をしかけるなんて容赦のない魔女だな」


 私が魔導回路を暴走させちゃったせいなんだけど、勘違いしているから黙っておいた。悪いのは全部魔女ということにしよう。

 扉をくぐると中は真っ暗だった。申し訳程度に入り口の燭台が燃えているが、一歩先は深い闇に包まれている。


「しまった、灯りがないから何も見えんぞ」

「こんなときこそ錬金術ですよ」


 私は自分の髪を数本抜いた。魔術士の髪には魔力が宿る。そして材料さえあれば私でも火を灯せるのが錬金術。

 私の髪の毛がふわりと暗闇に浮かび、無数の炎となって部屋の四方に飛んだ。ぽんぽんぽん、と壁の燭台に火が灯っていく。やがて部屋の全貌が明らかになった。


 学院から雰囲気が変わり、城の地下にありそうな古い造りの石畳が広がっている。華美な装飾はない。広々とした空間の左右に太い石柱が並び、奥には荘厳なひつぎが置かれ、天井から長いタペストリーが掛けられている。棺のさらに奥には天井まで届きそうな窓があり、地下なのに青い月明かりが差し込んでいた。タペストリーに刻まれているのは扉と同じ模様。ここはシャルマーン貴族に連なる場所なのだろう。ということはメルメリィ教授も元貴族なのかな。そういえば『不要新聞回収置き場』に名門貴族の記事が載っていた。あのときは気にとめなかったけど、たぶんあれはメルメリィ教授のことだったのだろう。


「これは霊廟れいびょうですね。身分の高い人が眠る場所のようです」

「ここにメルメリィ教授がいるのか?」

「そう願っていますよ。じゃないと無駄足ですから」


 空気が冷んやりとしている。それが地下だからか、それとも霊廟が持つ独特の雰囲気によるものかはわからない。でも異質な場所なのは確かだ。エマと警戒しながら中央の棺に近寄った。先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返り、私たちの足音が広々とした霊廟に反響する。


 棺は誰かが手入れをしているようだ。古めかしい見た目をしているけど丁寧に磨かれているし、棺から飛び出している花も瑞々しく咲いている。エマと顔を見合わせてから覗き込むと、綺麗な女性が眠っていた。


 メルメリィ教授だ。

 幻影で現れた姿よりもずっと細く、青白い肌をしていて、触ると折れてしまいそうなほど儚い印象を受けた。でもピンクブロンドの髪はやっぱり美しい。胸の前で重ねられた手には指輪がはめられている。結婚指輪かな。錆び一つない指輪が月明かりに反射して輝いた。棺の中にはたくさんの花が添えられている。真っ黒な花弁がメルメリィ教授の白さを際立きわだたせた。

 呼吸の音が聞こえないから死んでいるのだろうか。でも死体にしては腐っていない。今にも起き上がりそうなほど綺麗だ。


「触らないほうがいいですよ」


 思わずといった様子でエマが触れようとしていた。眠っている魔術士に気安く触れてはいけない。呪いをかけられる可能性がある。


「やるなら一撃です。私の魔術でやりますか?」

「いいや、私がやろう」


 エマが剣に手をかけた。以前から思っていたけど、相棒はどうやら私にあまり魔術を使わせたくないらしい。今さら手を汚すことに躊躇しないけどね。でも本人が言うなら今回は任せよう。

 相棒の剣が引き抜かれた。柄を両手で掴んで下向きに構え、メルメリィ教授の喉元に切先を向ける。眠る麗人れいじんのなんと無防備な様。相棒が少しでも力を加えれば、鋭い切先が魔女の柔肌を破ってしまう。


「恨むなよ学院長。戦いとは無情なのだ」


 エマの指に力が込められた。彼女の剣がメルメリィを貫くかと思ったその時、突如として冷たい風が霊寵の入り口から駆け抜けた。同時に、真っ黒な夜霧が生き物のように蠢きながら私たちを取り囲んだ。


「そこまでだ」


 振り下ろしかけていたエマの手が止まった。いつの間にか顔色の悪い男がエマの腕を掴み、黒い刀身の剣をエマの首筋に当てていたからだ。さらに彼の体から流れ出す夜霧がエマの体を縛る。もはや彼女は指先一本すら動かせない。

 エマが縛られるのを見て反射的に飛び出そうとしたけど、その前に私の足が夜霧で捕えられた。氷のように冷たい冷気が足から伝わり、その寒気に思わず背筋が震えた。

 私たちは彼を知っている。時には第三者として争いを眺める観測者であり、時には状況を引っ掻きまわす厄介者。


「……ルドウィックさん」


 新聞屋、もしくは星詠みの魔女。メルメリィ教授と同じぐらい青白い肌の男が、珍しく剣呑な表情を浮かべていた。彼は怒っているのだ。体からあふれ出した夜霧が床に溜まり、霊廟の石畳を真っ黒に染めていく。


「残念だよ。君たちならメルメリィと気が合うかと思っていたのに」


 ルドウィックの瞳は冷たい。普段の飄々とした態度から一変、本来の魔女としての貌が表に出ている。

 エマの頬に汗が流れた。エマは勇敢な騎士だ。命が惜しいとよく言っているが、彼女が戦場で弱みを見せたことは一度もない。そんな彼女が冷や汗を流している。


「魔術を使おうとしても無駄だよメヴィ。魔女よりも早く魔導元素を操れると思っているのかい?」


 夜霧が針のように飛び出して私の目の前で止まった。すでに霊廟のすべてがルドウィックの支配下だった。

 窓から差し込む月光が魔導元素をキラキラと輝かせる。濡れ鳥のように黒い髪。女性のように長いまつ毛。その下から見える暗い相貌と、亡者のように刻まれた深い隈。

 魔女なのだ。掴みどころがない男だけど、やはり彼も業を背負いし魔女なのだ。

 エレノアと同等……ううん、それ以上の覇気。このままだとまずい。せめてもの時間稼ぎをするために、メルメリィ教授について尋ねた。


「メルメリィ教授は死んでいるんですか?」

「仮死状態だよ。この子は魔女になった時からずっと眠っているんだ」


 ルドウィックは剣先をエマに向けたまま、もう片方の骨ばった手でメルメリィ教授の頬を撫でた。月光が新聞屋の表情に影を落とす。屍人の男女。そう表現するのがふさわしいほど、新聞屋と教授からは正気が感じられない。


「メルメリィにはシャルマーン王家の血が流れている。そのせいで貴族の欲深い権力争いに巻き込まれてね、彼女は多くの貴族や欲深い商人に狙われた。どれだけ排除しても敵は消えない。この子の心臓が動く限り、王家の魔導具によって居場所を特定され続ける。研究者時代の仲間や友人たちがメルメリィを匿おうとして犠牲になるたびにこの子は嘆き、次第にメルメリィの心は壊れ、疑心暗鬼に陥った」


 夜霧が私たちの体にまとわりつく。軽いのに振り解けない、不思議な感触。霧状の腕が私の首を掴んだ。あまりの冷たさに喉が凍ってしまいそうだ。


「この子はね、現実から逃げたくて魔女になったんだ。サルトリア魔術学院はメルメリィにとって最後の楽園なのさ。だからどうか壊さないでくれ。じゃないと僕が剣を握らないといけなくなる」


 真っ黒な夜霧が私の体にまとわりつくたび、触れた箇所から感覚がなくなっていく。まずい。非常に、まずい。一刻も早く脱出しないとルドウィックの魔術に飲み込まれる。わかっているけれど逃れられない。今さらながら魔女の魔術がいかに強力であるかを実感した。

 まずは指先が凍りついた。霜がおりた爪。放っておけば壊死は避けられない。指先が腐り落ちるのが先か、心臓の鼓動が止まるのが先か。


(腐敗の、魔術は――)


 呪痕に力を込めようとするも、すでに右腕が夜霧に飲まれて凍り始めている。なにか手段はないか。必死に目を動かすと、体の大部分が飲み込まれたエマの姿が見えた。ルドウィックの至近距離にいたせいで進行が早いのだ。


「ルーミラには僕から伝えておこう。君は勇敢にもシャルマーン軍と戦い、多くの敵を討ち取った末に戦死したと。だから安心して眠りなさい」


 目や口を覆われたエマはもはや生きているかもわからない。この芯から凍るような冷気に覆われて無事だろうか。いや、生きているはずだ。エマはそう易々と死んだりしない。そう信じて、声を出そうとする。


「カッ……」


 喉の筋肉が固まってうまく喋れない。それでも叫ばねば。エマを守れるのは私だけなのだ。懸命に喉を動かした。胃がぐるぐると回って吐きそうだった。


「取引――を、しましょう」


 わずかに視界が晴れた。怪訝な表情を浮かべるルドウィックが見える。


「取引? この状況でかい?」

「この状況だからこそ、です」


 そりゃあ怖いよ。魔女を相手に取引をする、という意味を私は正しく理解している。しかも相手はルドウィックだ、借りを作ればどんな目に遭わされるかわからない。一度口にすれば撤回は不可能。決して引き返せない境界線。でもどれだけ悩んだって、私は今思い浮かんでいる選択肢を選ぶと思う。だから迷う時間は無駄だ。


「私たちを見逃してください。もちろん、アルジェブラさんもです。あなたならメルメリィ教授を止められますよね」

「もちろん僕なら説得できるだろう。でも僕はメルメリィの気持ちを最優先にしたい。果たして君は僕を納得させられるものを提示できるのかい?」


 まだ迷っている。どうにか腐敗の力でルドウィックをぶっ飛ばせないかと考えている。でも無理だ。だってルドウィックはまだまだ本気を出していないもん。片手間の魔術で私とエマを完封できるほど、彼と私たちの間には大きな隔たりがある。人が人である限り超えられない深い溝だ。いったいどれほどの犠牲を払えばルドウィックのような魔女になれるのだろうか。


 ルドウィックが私の拘束をわずかに緩めた。聞く耳を持ってくれたらしい。私は自由になった左手で自分の頭を指差した。私の意図が掴めない新聞屋は怪訝な表情を浮かべた。


「ルドウィックさんは他者の記憶を見れますよね?」

「……ルーミラから聞いたのかい?」

「いいえ、自力で集めた情報から推測しました。あなたがシャルマーン人なのは知っています。シャルマーンの古い部族に伝わる、星の魔力を使った魔術に面白い記述がありました。いわく、万物を見通す星の瞳は、条件さえ揃えば他者の記憶すら覗き見ると」


 ルドウィックが「やるじゃないか」と言いたげにパチパチと拍手をした。ルドウィックの秘密について勘づいたのは偶然だ。旧シャトルワース領の悲劇について調べていたときに見つけた。


「星の魔力を瞳に宿したあなたの千里眼は他人の記憶に干渉する。でも勝手に覗けるわけじゃない。弱っているとか、同意があるとか、いくつかの条件があるんですよね?」

「もしも覗き放題なら記事のネタに困らないんだけど、世の中はそう上手くまわっていない。いやはや驚いたよ。君はもっと受け身で流れに身を任せる性格だと思っていたけれど、ちゃんと自分の関わる相手について調べているようだ」

「私のまわりには厄介な性格の人が多いですからね」

「ハッハッハ、同族が集まっているんだろうさ。君は本当によく調べている。でも交渉材料としては弱い。ルーミラの記憶なら価値があるけれど、君の年齢じゃ見られる景色も限られているだろう?」


 やはりルドウィックは知らないらしい。私が輪廻の海から還った人間であることは知っていても、その前にどこで生きていたかを。新聞屋は物知りだ。彼の瞳があればこの世のあらゆる事象を観測できる。それでもルドウィックすら届かない世界だってあるのだ。


「本当にそうですか?」


 確信があった。自信があった。ルドウィックに対して切れる、現状で唯一の手札。本当は誰にも話したくない。だって私とお母様だけの大切な記憶だから。でも大事な仲間を救うためならば、たとえ相手が胡散臭い新聞屋でも躊躇してはいけない。そうですよねお母様。メヴィは間違っていませんよね。


「あなたが絶対に知らない景色。フィリップ隊長も、エレノアも、ルル婆ですら触れたことのない世界を知りたくないですか?」


 ルドウィックの余裕が初めて崩れた。彼は魔女だ。欲望の果てに生まれた魔女の一人だ。ゆえに受け入れるしかない。だって彼は面白そうな情報には食いつかずにいられないから。目の前にぶら下がる餌を無視できるような人間はそもそも魔女になっていない。度し難く、欲深く、そして純粋な者たち。


「まいったな。本当にまいった。あとでメルメリィに怒られてしまうじゃないか。どうやって宥めるか、君の瞳に教えてもらうとしよう」


 私の体にまとわりついていた夜霧が消えた。同時に大きな影が私に落ちる。無理やり感情を抑えたかのように無表情で見下ろすルドウィック。私が顔をあげると、彼の両手が私の顔を挟んだ。両側から鷲掴みにし、親指で私の目蓋まぶたを押し上げる。

 空が見えた。新聞屋の瞳に潜む、広大で美しい夜の星空だ。

 彼の顔をこんなに近くで見るのは初めてだった。底が知れない。彼の気が少しでも変われば私の頭は潰されてしまう。でも不思議と怖くなかった。彼の瞳が、ベランダから見上げた夜空に似ていたからかもしれない。


 彼は知るだろう。この世界に存在しない技術、知識、文化や芸術。その果てに彼はどんな答えを見つけるのか、私は想像することしかできない。どうせろくなことにならないとは思う。頑張って世界。私は知りません。

 ルドウィックの呪痕が輝きを増し、夜霧が私たちを包み隠すと、彼の瞳に吸い込まれるようにして私は意識を手放した。



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