第58話:魔女の領域
部屋の中央でカロリーネ殿下が死んでいる。彼女の体は大量の菌に寄生されているから、もし殺される現場を見ていなければ誰の死体かわからなかった。
「胞子を吸うと危険なので注意してください。寄生されたら菌に殺されるか、私の魔術で腐るかの二択になりますよ」
「騎士の呪痕には魔術に対する耐性がある。少し吸い込む程度なら平気だ」
「相手は魔女なんでわかりませんよ。常識が通じる相手じゃないんですから」
「ハッハッハ、常識が通じぬ相手はお前で慣れている」
カロリーネ殿下を助けることはできなかった。私たちだけで魔女に喧嘩を売るなんて無謀だもん。カロリーネ殿下の保護が本来の目的だったけど、エマを危険に晒してまで優先する任務じゃないし、ましてや相手の手の内もわからないうちは静観するしかない。命大事に。魔女の前では準二級魔術士なんて無力に等しいのだ。
「捜索対象の王女殿下を見殺しにしたとなれば、義勇兵失格だな」
「依頼も大事ですが、そのために勝ち目のない戦いをするほど私たちは真面目じゃないです。まあつまり、運が悪かったと思いましょう」
命の価値は平等ではない。たとえ相手が王族であろうとも、エマを道連れにする理由にはならない。義勇兵は死と隣り合わせだ。いつ命を落とすかわからず、さよならの準備もできないまま戦っている。だからこそ、この身を投げうつのは同じ戦場に立つ仲間のためだと決めている。
「死体はどうしましょうか?」
「放置するしかないな。我々がこの場にいたと知られればまたあらぬ疑いをかけられる。もしも下手に痕跡を残せば、明日の魔女新聞は私たちが一面を飾るだろう」
「何回も新聞に載っているので慣れました。そろそろ私たちの知名度も上がってきたんじゃないですか?」
「見知らぬ人から握手を求められるかもしれん。フィリップ隊長の羨む顔が楽しみだ」
ハッハッハ、と笑い合う。その声に反応したのか、壺のような菌が胞子を吹き出したから私たちは飛び退いた。
「まずは宿に帰ってアルジェブラ殿に報告しよう。それから一刻も早く学院から離れるのだ。どんな濡れ衣を着せられるかわからんからな」
「せっかく馴染んだのに名残惜しいですねえ。もう少しだけ講義を学びたかったんですけど……」
「一応言っておくがこれは仕事なんだぞ。依頼主であるアルジェブラ殿が命令すれば従わなければならん」
「わかってますよ。ちょっとだけ、ここでの生活が楽しかったから後ろ髪が引かれただけです。こう見えてカロリーネ様の死を悲しんでいるんですよ」
憧れの学校生活だった。その幕切れとしては虚しい結末。物言わぬ元学友を見下ろしながら私はつぶやく。
「カロリーネ様は国を出るべきじゃなかったんです。西方蛮族からすれば、まるで王女が学院と手を結ぼうとしているように見えたんでしょう。実際に同盟があったのかは知らないですけど、結果的に彼らを煽ることになり、魔女ピッチが動いた」
「まあ西方蛮族は焦るだろうな。放っておけば敵が増強するのだから」
ピッチは是が非でもカロリーネ殿下を始末したかった。同盟成立という結果をパラアンコに持ち帰る前に。政治はおっかないね。私のように慈悲深い人が増えたら世の中はもっと平和になるのに。
「そもそも、どうしてカロリーネ様は急に国を飛び出したんですかね。同盟を結ぶにしたってもっとやり方があったでしょうに。腹黒い誰かに嵌められたんでしょうか」
「真実はわからんが、少なくとも融和派の旗頭が消えたのは確かだ。カロリーネ殿下がいたからこそ過激派を抑えられたのに……国が傾くぞ」
「もうとっくに傾いていますよ――」
私は言葉を途切らせた。視界の端で何かが動いたのだ。スローモーションのように時間がゆっくりと感じられる。引き伸ばされた世界の中、カロリーネ殿下の死体がびくんと跳ね、萎れたつぼみが開花するように彼女が立ち上がった。まだ私の焦点はカロリーネ殿下に合っていない。でも、ぼやけた視界の端でカロリーネ殿下のいびつな笑顔が見えた瞬間、私はエマの腕を引きながら部屋の出口へ駆け出した。
エマは驚いたように目を見開いたが、すぐに異変が起きたのだと判断して剣に手を伸ばした。引き抜きはしない。だがいつでも戦える格好。
いまだ時間がゆっくりに感じられる中、私は横目でカロリーネ殿下を見た。両目から菌があふれ出し、腫瘍のような塊に全身を覆われながらも、その薄くて形の良い口元だけは三日月のように釣り上がっている。思わず魔導元素の流れを見た。すると部屋中を、否、廊下を超えて学院の端まで届きそうなほど膨大な魔力糸が広がっていた。
これほど強大な魔力糸。今まで気づかなかったのは巧妙に隠されていたからだ。暗い光を帯びた魔導元素がカロリーネ殿下に集まっている。ここがまるで彼女の領域だと主張するかのように。
「逃げなくてもいいじゃない」
何もない空間から這い出たかのように、カロリーネ殿下が扉の前に移動した。気づいた瞬間には後ろから消えていたのだ。私はおろか、身体能力の優れたエマですら目で追えていない。
「“封呪の鎖”!」
鎖がカロリーネ殿下の体に巻きついた。でも当たった感触がない。たしかに彼女の体を捕えているはずなのにまるで雲を掴んでいるような感覚だ。
「良い反応だわ。流石はルーミラの弟子。ちゃんと仕込まれているのね」
「ルル婆を知っているんですか?」
「もちろん知っているわよ。私が大嫌いな女。シャトルワースの悲劇を忘れたことはないわ。未来有望の、もしかすれば学院の仲間になっていたかもしれない多くの魔術士を殺した魔女だもの」
エマが剣の切先を向けながら聞く。
「いったいどうなっている。カロリーネ殿下は死んだはずだ。私たちが見届けた」
「ええ、死んだわ。哀れなカロリーネはピッチに殺されて菌死体として見つかった」
「ならばお前は誰だ?」
「メヴィはもうわかっているんじゃない?」
やはり彼女はあえて魔力糸を解放したのだろう。そして魔女の弟子である私は、こういった埒外な規模の魔力糸を見慣れている。ルル婆がシャトルワース全域に魔力糸を広げるように、もしくは魔女エレノアが水中を支配するように、彼女たちは一般的な魔術士の物差しでは測れない力がある。
「私の記憶が正しければ、これは協定違反……ですよね?」
カロリーネ殿下が満足げにうなずいた。棚に置かれていた銀の天秤がひとりでに動くと、カロリーネ殿下が立っている方向に傾く。宙に漂っていた胞子がいつの間にか消え、床や壁に生えた菌糸もカロリーネ殿下の魔力に押しつぶされるように活力を失っている。
「魔女同士の争いは協定によって禁止され、弟子もまた同様に争ってはならないとされている。でも所詮は暗黙の了解なのよ。厳密に罰せられるものじゃない。同盟や協定と名のつくものは大抵の場合、都合のよい建前に過ぎないの」
カロリーネ殿下の体が幻のように溶けてまったくの別人に変わり、同時に彼女を捕えていた鎖が解かれた。
「改めて名乗りましょう。私は獣学者メルメリィ」
第一印象は、これほど綺麗な女性は見たことがない、だ。腰のあたりまで真っ直ぐ下ろされたピンクブロンドの髪が絹のように美しく、前髪は目の上で揃えられ、その下に、吸い込まれそうな深い藍色の瞳がある。年齢は二十に届くかどうかぐらいに見えるが、彼女の醸し出す雰囲気は妙齢の女性のように落ち着いており、これが魔女だと言われても納得できる貫禄があった。少なくとも、いつも騒がしくてガミガミと怒るルル婆に比べたらよほど大人っぽく見える。
「“夢見の魔女”なんて呼ばれているわ」
燦然たる魔力の波動。夜よりも深い魔導の香り。ピッチが残した菌糸を食い尽くすように、メルメリィの魔導元素が室内を塗り替える。銀の天秤が繰り返し傾き、そのたびにガンガンと金属の音が鳴った。なおも広がり続けるメルメリィの魔力糸。私たちは知らぬ間に魔女の領域へ踏み込んでいた。
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