第55話:大壺いたずら事件
魔術学院の下町でささやかな食事会を開いた翌日、私は眠い目をこすりながら錬金術の教室に向かった。
「うえっ……酷い匂いですね」
扉を開けた途端、焦げた薬草と動物の肉が混ざったような異臭が鼻をついた。少し涙目になりながら教室を見渡すと、異臭はウッドブラット教授が持ち込んでいる大壺が原因のようだ。学生たちが口元を覆いながら煙を抑えられないかと話し合っている。勉強熱心なトーマスが何やら呟いて大壺に魔術をかけた。煙は止まるどころか勢いを増し、周囲の学生が咳き込んだ。
「ごきげんよう、カロリーネ殿下。今日も早いですね」
「あら、あなたは誰かしら?」
「たった数日で忘れちゃったんですか? メヴィですよ、ほら、隠し階段の入り口で会った」
カロリーネ殿下は「隠し階段……」とぼんやりした様子で繰り返した。ひええ、私、悲しいです。結構仲良くなれたと思ったのに。
今日のカロリーネ殿下は少し様子が変だ。いつもより怖い顔をしているし、呪痕も金色というよりは少し赤っぽく光っている。そういえばいつも睨んでくる侍女がいない。不思議に思いながら殿下の隣に座った。
「それで、この騒ぎはなんですか?」
「誰かが大壺にいたずらをしたのでしょう。こんなことが教授に見つかったら大変だというのに……」
「やんちゃな学生がいるんですねえ。ちなみにあの大壺には何が入っているんですか?」
「呪いくだしよ」
私は「呪いくだし?」と聞き返した。
「ウッドブラット教授が長年研究している魔導薬よ。魔術士のなかには呪痕を刻んだことを後悔する人も少なくないの。魔術士を目指したけど才能に恵まれなかった女の子や、望まずに刻まれた奴隷などが多いわ」
「でも呪痕ってそう簡単に消せませんよね?」
「少なくとも私は呪痕を消したという前例を聞いたことがないわ」
「そりゃそうだよ」
机に影がさした。顔を上げるとお喋りピッチがいつの間にか立っている。今日の彼女は左右で違う色の靴下を履き、袖のない服を着て肩をあられもなく出し、なせか両手にシュシュをつけて、頭には花が咲いたとんがり帽子を被っていた。カロリーネ殿下が「あなたは『抗魔石を始めとした魔導結晶の研究』で大失敗をして反省文を書いているはずでは?」と聞くとピッチが「ちゃーんと書いてきたよ。私って優秀だから嘘をでっち上げるのが得意なの」とウインクをした。
「呪痕を作ったのは原初の魔女だもん。呪痕を消すっていうのは、原初の魔女の力に打ち勝つってことだからね。常識的に考えたら無理な話だ」
「でも可能性はあるわ。無謀だからって諦めるような魔術士はこの学院にいないの」
「理想が高いのはいいことだけどねえ、貴重な人生を費やすにはもったいないと思うな。メヴィもそう思わない?」
「難しいことはよくわかりませんが、教室で大壺を茹でるのはやめてほしいですね」
「ハッハッハ、間違いない」
ピッチが笑いながら私の頭をぽんぽんと叩いた。なんだか子ども扱いをされたみたいで解せない。彼女はそのまま私の隣に座った。今日も二人に挟まれるような格好だ。放っておくとまた二人で言い争いを始めそうだから、私が先に話題を振ることにした。
「カロリーネ殿下は学院にカーリヤ人の講師がいるか知っていますか?」
「ここは様々な国籍の魔術士が集まるから、もちろんカーリヤ人の講師も何人かいるわ」
「その講師の名前を教えてくれませんか?」
「いいけれど、理由を聞かせてくれないかしら。内容次第では私が手を貸せるわよ」
部外者のカロリーネ殿下に対して勝手に話してもいいだろうか。別にいっか。責任はたぶんアルジェブラさんが取るだろうし。
「学院で起きた菌死体事件の犯人が、カーリヤ人かもしれないんです」
「カーリヤ人が? どうしてかしら?」
「実は――」
私は『不要新聞回収置き場』で見つけた過去の記事について話した。最初はカロリーネ殿下も信じていなかったけど、話を聞くにつれて深刻な表情に変わり、なにか思い悩むように黙り込んだ。
「パラアンコで菌死体……でも、それじゃあ……」
ぶつぶつと呟きながら自分の世界に入ってしまったカロリーネ殿下。顔の前でぶんぶんと手を振ってみたが反応がない。これは戻ってくるまで時間がかかりそうだ。手持ち無沙汰になってピッチを見ると、彼女もまた奇妙な顔をしていた。ひどく驚いて目を丸くしており、その驚きようは私までびっくりするほどだ。
「ちょっとメヴィ、君ってばあの事件を調べているの?」
「言いませんでしたっけ、死体の犯人は私じゃないかって疑いを掛けられているんです。いい迷惑ですねえ」
「ふうん……君はまだ若いんだから、あまり危険な事件に関わるべきじゃないと思うんだ。今朝も新しい犠牲者が現れたって聞いたし、行方不明になった学生もいるって話だ。君も下手に首を突っ込むと巻き込まれちゃうよ」
「もう既に巻き込まれているんですよ。それに調べているのは私だけじゃないので大丈夫です。いざとなったら頼れる仲間がいますから」
ピッチが「でも――」と食い下がろうとしたが、その前に教室の扉が開いた。ウッドブラット教授が来たのだ。彼は室内にたち込める異常なモヤに顔をしかめた後、大壺に異変が起きたのだと知って青ざめた。
「だ、誰だ! いったい誰が私の研究の邪魔をしたのだ!」
教室がしんと静まり返る。ウッドブラット教授が「心当たりがある者は今すぐ名乗りを上げなさい!」と怒声を上げたが誰も手を挙げない。最近の教授は怒ってばっかりだなあと眺めていたらピッチが耳打ちをしてきた。
「あの大壺、学生が
「いたずらの範疇を超えてるってわけですか。悪質ですね」
「いたずらなんてのは大抵が悪質……おっと」
ピッチがさっと頭を低くした。いったい何事かと思ったらウッドブラッド教授が私を見ている。紅潮した顔に血走った目。小さい子が見たら泣いてしまいそうな怖い顔。
「まさか……君か! やはり君がやったのか!」
この前の『不要新聞回収置き場』で言い争った一件を思い出した。たぶん、あれがきっかけで私の印象が悪いんだと思う。ウッドブラット教授からすれば私はピッチと並ぶ問題児だから。
「違いますよ。私はさっき教室にきたばかりです」
「ならば誰がやったと言うのだ! 君以外に、誰が!」
ウッドブラット教授は頭に血がのぼっているせいで話を聞いてくれない。私の仕業だと完全に思い込んでいるようだ。
「そう言われても困ります。ねえピッチ、あなたからも何か言って――」
助けを求めて右を見ると、ピッチは目をつけられないように机の下で隠れていた。ばちん、と無駄に綺麗なウィンクが飛んでくる。友情とは儚いものらしい。
仕方がないから反対側のカロリーネ殿下に助けを求めると、彼女は机の下に隠れるピッチを呆れたように見ながら立ち上がった。
「落ち着きなさい教授。メヴィはやっていません。彼女は大壺がある理由すらさっき知ったばかりなのです」
「いいや、彼女の仕業だ。彼女が現れてからおかしなことばかりだ。恐ろしい事件が起きたのだって――」
「教授、違います。その件も、違うのです」
おおっと、今日のカロリーネ殿下はやけに高圧的だ。もちろん彼女は王族だから生まれながらにして上位者なのだが、それでも今までは学生としての身をわきまえていた。初めて会った時に「同じ学友としてよろしく」と言ったのは他ならぬカロリーネ殿下である。なのに今のカロリーネ殿下はまるで教授と対等か、むしろそれ以上かのような態度だ。
「わかりますね? わからないのならば、あなたはよほど冷静さを失っているのでしょう。一度、頭を冷やしてきなさい」
「教授に対して何という口の利き方だ! 身の程をわきまえなさい!」
「身の程をわきまえるのはあなたよ教授。この意味が理解できるかしら?」
「ちょっと、カロリーネ殿下……?」
別人のようにまくし立てるカロリーネ殿下。流石に言い過ぎだ。私を庇ってくれたのは本当に嬉しいのだけど、これ以上ウッドブラット教授を刺激したら、今度こそ錬金術の講義を出禁にされかねない。
(ピッチ、隠れていないでカロリーネ殿下を
そっと小声で机の下に話しかけた。
(……ピッチ?)
ピッチはまるでとんでもない失敗をしたかのように青ざめていた。唇をわなわなと震わせ、焦点の定まらない瞳でぐるぐるとカロリーネ殿下を見上げている。軽く肩をゆすってみたが反応がない。
なぜピッチが震えているのだろうか。隠れたいのは私だというのに。
もう何がなんだかわからなかった。私はどうするべき? カロリーネ殿下を宥める? ピッチに震えている理由を聞く? それとも自力で潔白を証明する?
「あなた様はまさか……」
私がピッチに構っている一方、ウッドブラット教授は何か気づいたように呟いた。彼は深く聡明な瞳をカロリーネ殿下に向けている。
「カロリーネ殿下。話があるからついてきなさい。他の者たちは自習だ。錬金術の応用と人体の関係について勉強をしておくように」
そう言ってウッドブラット教授が杖で地面を叩いた。大壺の火が消えて、吹き出していた煙がゆっくりと収まっていく。ウッドブラット教授が部屋を出ると、カロリーネ殿下が荷物をまとめて追いかけていった。
「どうしましょうピッチ。とりあえず疑いは晴れたみたいですけど、何か別の問題が起きたようです。というか確実に面倒事な気がします」
「……失敗した、手遅れだった……ううん、私は悪くない。仕方がないんだ」
「ピッチさーん、正気に戻ってくれませんか。私を置いてけぼりにしないでください」
ぐるぐると目を回すピッチ。これは駄目そうだ。
教室を見渡すと他の生徒たちも混乱しており、さっきの一件について話す声が聞こえる。
「カロリーネ殿下、すごい剣幕だったね。いくら親しみやすくても王族なんだなって思ったわ」
「それよりもあの大壺よ。あれのせいで今日の講義がめちゃくちゃだわ」
「どんないたずらをされたのかしら。ねえ、調べてみない?」
「どうせ無駄よ。知らないの? あの大壺、
カロリーネ殿下はいない。ピッチも自分の世界に入ったまま。そういえば怖い侍女はどこに消えたのだろうか。一人ぼっちになった私はぼんやりと大壺を見つめた。煙が消えたおかげで大壺の中身が見える。ボコボコと濁ったような気泡が沸いていた。
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