第51話:菌糸にまみれて
私が「メヴィ」として生まれてすぐは、自分が自分じゃないような違和感があった。まるで体の所有者が私を拒んでいるみたいに頭がぼんやりとして、記憶が曖昧になり、以前のことは何も思い出せなかった。
でも呪痕が強くなるにつれて、私は過去の記憶が少しずつ甦った。生前の私という人格が、この体の所有者を上書きしているんだと思う。エマには話していない。ルル婆だって知らないだろう。
だってお母様が秘密にしなさいって言ったから。言いつけは守らないといけない。そうでしょう、お母様。メヴィは約束を守る良い子です。隣の親切なお婆ちゃんにも言わなかったし、先生に聞かれても秘密にした。だからエマやルル婆に言うつもりはない。
そもそも言ったところで何も変わらない。今の私はメヴィだ。頑張れば頑張るほど、エマや部隊のみんな、もしくはアルジェブラが私を必要としてくれる。それだけで十分なのだ。
――奉仕せよ。
ひどく聞き覚えのある声が頭の中でがんがんと響いた。
「んんっ……」
緩やかにまぶたが上がる。朝だ。わずかに開いた窓から爽やかな風が入り、たなびいたカーテンの隙間から朝日が差し込んだ。懐かしい夢を見た気がするがもう思い出せない。薄い布団からおりてロープを羽織り、ほぐすように体を伸ばすと少しだけ頭がハッキリした。
「みんなはもう起きているかな……」
私たちは学院の生徒ではないため、街の宿に泊まり、各自の情報を共有している。食堂におりると、アルジェブラとエマがひどく疲れた様子で座っていた。まるで何日も寝ていないかのように顔が白く、声に元気がない。私は自分の分の朝食を頼んでから席についた。
「二人ともどうかしたんですか?」
尋ねると二人は顔を見合わせ、どちらが説明しようかと目で話し合った。先に口を開いたのはアルジェブラだ。
「学院内で変死体が発見されたのよ。死んだ時期がちょうど昨日。部外者である私たちは少し動きづらい状況になったわ」
「死んだのはパラアンコ人ですか?」
「わからないのよね。パラアンコ人らしき痕跡はあるのだけど、顔の見分けがつかないほどドロドロになっていて……とりあえず、神隠しにあったパラアンコ人だった可能性を考えて調査しているわ」
ドロドロ、という言葉に私は引っかかった。
「私じゃないですよ?」
「ああ、もちろんだ。ちなみに学院内で魔術は使ったか?」
「疑っているじゃないですかあ」
「ハッハッハ、冗談だ。だが学院は私たちを警戒している。くれぐれも問題を起こさないように注意してくれ」
エマが「問題を起こさないように」の部分を強調した。私がまるで問題児みたいな言い草です。私が問題児ならエマだって問題児なのにね。納得がいきません。
アルジェブラが眠気覚ましにワインをあおり、肉汁あふれるソーセージを行儀良く食べた。戦場では食べられないご馳走のおかげで血の気が少し戻ったようだ。しばし三人とも黙って食事をすすめた。
「カロリーネ殿下の説得は順調かしら?」
「うーん、帰る気はまったくないみたいですね。彼女を説得するよりも錬金術を覚えるほうが楽ですよ。ほら、見てください」
髪の毛を数本引き抜いてから机をトントンと叩くと、空っぽだったエマのグラスに水が注がれた。彼女は「腐っていないだろうな?」と疑うような顔で水を飲んだ。
「おかしな話だな。第三王女といえば、融和派の代表として積極的に活動していた方だ。パラアンコを捨てるような真似はしないと思うが」
「そんなのわからないわよ。決心なんていうのは、成果が出なければ鈍るものなの。王女殿下を悪く言うつもりはないけれど、状況から考えるとパラアンコよりも平和な学院を取ったとしてもおかしくない」
アルジェブラがそう言ったのは意外だ。真面目な彼女が王家を批判するのは珍しい。それだけ彼女も疲れているのだろう。家出した王女を探すために遠い異国の地まで来たのに、当の本人は帰る気がなく、さらに変な死体騒ぎに巻き込まれているのだから愚痴のひとつぐらいこぼれても仕方がない。
「そういうわけで、今日は死体があった場所に向かうからメヴィも一緒に来てちょうだい」
「私が行っても役に立たないですよ?」
「魔術士の意見を聞きたいのよ。なにせ現場が酷い有り様だったから」
アルジェブラは思い出すのも嫌だと言いたげな表情だった。
「まあ、食事中にする話じゃないわ。詳しくは学院に着いてから話しましょう」
食事を終えてから学院に向かうと、ちょうど学生たちがぞろぞろと登校する時間だった。抱えるほど大きな植物を運ぶ学生や、講師と談笑しながら門をくぐる研究者、サルファの祝福教会の教典を配る女学生、魔術で近道をしようとして失敗する者、魔女新聞に夢中でぶつかりそうになる講師など、学院の周囲は朝特有の騒がしさに包まれている。氷の彫像は日によってポーズを変え、正面の噴水から透きとおるような水が噴き出し、どこからともなく綺麗な歌が聞こえた。
ちなみにエマとアルジェブラは動きやすい格好に着替えている。二人とも顔が整っているから鎧を着ていないと
「そっちじゃないぞメヴィ」
つい錬金術の教室に向かおうとした私はエマに止められた。そっか、今日は錬金術を休まないといけないんだ。編入してから皆勤賞だったから少し悲しいです。
アルジェブラが向かったのは北棟の五階だ。この棟は貴族や商人の子息といった、比較的裕福な学生が集められており、すれ違う学生も綺麗な身なりの者が多い。
「ここよ。入るときは布で口元を覆いなさい。それと中の物には絶対に素手で触れないこと」
アルジェブラがとある部屋の前で立ち止まった。あらかじめ人払いがされているのか、廊下に学生の姿はなく、朝の喧騒が嘘のように静まりかえっている。全員が口に布をあてたことを確認してからアルジェブラが扉を開けた。
「ここは空き教室になっているから発見が遅れて、講師が見つけたときには除去できないほど成長していたらしいわ」
茸のような菌糸が部屋中にびっしりと生えていた。菌糸は大きさも形も様々だが全体的に白く、粉雪のような胞子が室内に舞っている。物置き部屋と思われる室内には使い古した実験器具や教科書、使わなくなった木製の机、古いタペストリーや壁かけ用の大きな絨毯などが雑多に置かれているが、そのすべてに無数の菌糸が根を張り、さらにカーテンや窓枠にまで菌糸が生えているせいで室内は薄暗い印象だった。
床にもびっしりと生えているが、部屋の中央に一箇所だけ生えていない場所がある。ちょうど人型のような形をしているため、おそらくここに犠牲者が倒れていたのだろう。事前にアルジェブラから渡されていた手袋をはめ、恐る恐る室内に足を踏み入れると、柔らかい何かを踏み潰すような感触が伝わった。
「死体はすでに焼き払われたわ。ここも早急に駆除するべきなのだけど、いかんせん、焼き払うわけにもいかないから一時的に隔離されているの」
たしかに部屋が丸ごと汚染されているのだから駆除は難航するだろう。柱や天井の梁にも菌糸が広がっており、もしかすると建物の内部にまで侵食しているかもしれない。
「これはいったい何ですか?」
「それがわからないのよね。学院側もこんな惨状を生む実験はしていないって言うし、学生たちも心当たりがないみたいなの」
「死体の判別がつかなかったのも納得だろう? 木材ですらこの有り様だ。人の体なんて……」
エマが言葉を濁した。思い出して気分が悪くなったのだろう。菌糸に覆われた机を触ってみるとまるで老朽したかのように
「それでどうだ。魔術士から見て、何か心あたりはないか?」
「うーん……」
何かしらの魔術が使われたのは確かだ。でも魔力糸の痕跡がないから術者の追跡はできない。相当練度の高い魔術士だと思う。少なくとも準一級以上……いや、一級魔術士の可能性が高いかも。
「これだけ強力な魔術が扱えるとなると、学生じゃなくて講師の仕業かもしれませんね。それか実力を隠して忍び込んだ学生、という線も考えられますが……どちらにせよ情報が足りないです」
アルジェブラが落胆した様子を見せた。聞き込み調査の成果が得られなかった彼女にとって、私は頼みの綱だったのだろう。せめて死体を直接見れたら良かったのだけど、すでに焼き払われてしまったのならば確認のしようがないし、現場から得られる情報にも限りがある。犯人があえて物置部屋を使ったのも、発見を遅らせて情報を残さないためだったのかもしれない。
「死体はどんな状態だったんですか?」
「この部屋と同じ状態だ。目や口の中にまでびっしりとな。それに腐敗も酷かった。運ぶ際に腕が崩れ落ちたんだが、体内まで菌糸が広がっていてゾッとしたよ。腐乱死体……いや、言うなれば菌死体だな。たとえ死に方を選べなくとも、ああはなりたくない」
エマが珍しく顔を青くしている。普段から「命大事に」と豪語する彼女だからこそ、余計に恐ろしく思えたのだろう。でも私は別のことに引っかかっていた。
「腐乱死体……」
その言葉をどこかで見た気がする。部屋を見まわしながら必死に思い出そうとした。棚に古い書籍が並べられている。初級魔導教本、呪痕と寿命の相関について、飽くなき錬金術の探訪、そしてカーリヤ族の歴史……。
「エマ、腐乱死体です!」
はじかれたように顔を上げると、エマが驚いたように体をそらした。彼女は何のことかわからず困惑している。でも私には確信があった。こう見えて記憶力には自信がある。
「新聞ですよ! カーリヤ族の腐乱死体!」
二人を連れて部屋を飛び出した。向かう先は不要新聞回収置き場。大陸中の情報が集まるあの部屋で、私は菌死体と同じ被害を受けた記事を見たのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます