第34話:ミレッタのお守り
腐敗の反動が想像以上に大きく、寮に帰ったのは日が昇ってからになった。街はまだ混乱が広がっており、魔女の脅威は去っていないと叫ぶ者や、雨が止んだと喜ぶ者、魔女を討伐しようと周囲に呼びかける者、人目もはばからず恋人と愛を確かめ合う者でごった返している。そんな街中を縫うように進み、ようやく玄関に着いた時には明るくなっていたわけだ。
エマに「朝帰りとはマセてるな」と笑われたが、彼女はすぐに笑顔を引っ込めて私を探るように見つめた。血がついた服は捨てたし、顔色も元に戻ったはずだけど、もしかして気付かれちゃったかな?
結局エマは確信が持てなかったらしく、深く追求せずに「早く入れ、エチェカーシカが心配している」と言った。
「メヴィさん!」
帰るなりエチェカーシカの猪タックルが歓迎してくれた。小柄な私は当然ながら受け止められず、勢い余って後ろに倒れた。まだ傷が治りきっていないから離してほしいけど、エチェカーシカはなりふり構わず「どこに行ってたんですか!」とか「治癒は必要ですか?」とかまくし立ててくる。ちょうどあなたのせいで傷が開きそうだった、というのはなけなしの善意で我慢した。
「そろそろ離れてください。貧民街はどうなりました?」
「昨晩のうちに水はほとんど抜けました。今は手の空いた義勇兵が軍と協力して、生存者の救出や魔女の捜索をしています」
「アルジェブラさんも貧民街ですか?」
「いいえ、彼女は朝早くに街を発ちましたよ。下流の村に向かったそうです」
街を沈めるほどの水が放流されたのだから、今ごろ下流の村は飲み込まれているだろう。どれだけ駿馬を使っても彼らを助けるのは間に合わない。水門を破壊した時点で覚悟していたはずだけど、アルジェブラは一縷の望みにかけたのだろうか。それとも生き残りを助けに行ったのだろうか。
エチェカーシカに治癒をかけてもらい、戦える程度にまで回復した私は二人を連れて街に出た。昨晩から何も食べていないから腹が減ったのだ。人の往来が激しい大通りを三人で歩く。
「空が晴れましたね。魔女の目撃情報も聞きませんし、驚異が去ったと考えてよさそうです。ほら、西の空を見てください」
青白い鹿が、まるで雨雲を連れていくかのように西の空を走っている。ここらでは珍しいサルファの獣……つまり原初の魔女が残した使い魔だ。雨の化身とも呼ばれており、雨上がりに空を走る姿を見た者は幸運が訪れるとか。
エチェカーシカがきらきらとした目で獣を見上げた。魔女崇拝の彼女にとってサルファの獣は特別なのだろう。
「これで我々の依頼も完了だ。弓騎士殿が帰還したら報酬をもらおう。きっと色をつけてくれるぞ」
「そういえばエチェカーシカもたくさん協力してくれましたけど、アルジェブラさんから報酬が出るんですか?」
「いえ、弓騎士様からは事前に教会へお布施をしていただきましたので」
えらく殊勝な態度だ。まあサルファの祝福教会としてもあまり事を大きくしたくないのかもしれない。彼らが敬愛する魔女によって引き起こされた騒動だし。
「なんにせよ我々は生き残った。今日は盛大に祝おう」
「いいですねえ。エマの奢りで祝勝会です!」
わーっと喜ぶ私たち。エマが何か言おうとしたが勢いで押しきった。
行きつけの料理屋に向かっていると、ちょうど地下の階段から男が現れた。もじゃもじゃのひげに薄汚れた作業服。ジャックロー技師だ。
「やあお前さんら。楽しそうだな」
「久しぶりにパーッと飲むんです。ジャックローさんもいかがですか?」
「がはは、せっかくの誘いだが遠慮しておこう。わしはこれから村に帰るんだ」
そう言いながら、彼は懐から刺繍が施された小さな布袋を大事そうに取り出した。
「これは娘から――ミレッタからお守りをもらってな。きっとわしが生き残れたのもお守りのおかげだろう。恥ずかしいから要らんと言ったんだが無理やり持たされたんだ……がはは、わしが持つにはちいと可愛いだろう?」
彼の作業服は仕事柄、油汚れや鉄錆でボロボロだが、お守りだけは染みひとつなかった。ジャックローも憎まれ口を叩きつつ表情は照れくさそうである。
私たちは無言で顔を見合わせた。ジャックロー技師の故郷は街の西側、川を下っていった先にある。ウサック要塞の遠征時は村でお世話になった。つまり、そういうことだ。
「なんじゃなんじゃ、何か言ってくれんと余計に恥ずかしいわい。それじゃあ馬車が待ってるからの。お前さんらも楽しんでくれ」
ジャックロー技師が陽気に笑いながら去った。今さら私たちに言えることはない。慰める資格もないのだ。せめて生き残りがいるように願うのみである。
「まあ、やれることはやったんです。あとは被害が少ないことを祈りましょう。さあさあ、食べに行きますよ」
二人の背中を叩いて歩き出す。とりあえず飯だ。空腹は思考をどんどん暗いほうへ落としてしまう。美味しいものを食べて、大変だったねと笑って、軽く冗談を言い合いながら腹を満たせば、たぶん、みんな明るくなる。そんなもんだ。人は他人の不幸に鈍感なのだ。
相変わらず街は騒々しい。それが私は少しだけ嬉しい。湿っぽく地下に閉じ籠るのは似合わない。生に執着し、金に貪欲で、欲に素直なカタビランカ。私たちが少なくない犠牲を払って守った街である。
その日を境にジャックロー技師は姿を消した。どれだけ待ってもカタビランカに帰らなかった。
◯
そんなこんなで魔女騒動から数日後、私はパシフィックを連れて再びマダム・リンダの拠点に顔を出した。協力の条件だった「シャトルワース領への行き方」を教えるためだ。彼らの拠点まで会いにいくと、マダムの右腕であるシュタークが扉の前で待っており、彼は私たちを見るとすぐにマダムを呼んだ。
それから「まずは腹ごしらえをしよう」という話になり、見るからに高そうな料亭に案内された。花街でも屈指の名店だそうだ。店内は落ち着いた雰囲気の個室になっており、私たちは一番奥の部屋に通された。
私とパシフィックが並び、正面にマダム、少し下がってシュタークという格好だ。席につくとすぐに大量の料理が運ばれた。
「よく食べますねえ」
「大の男が両手をあげるような量だ、きっとあれが若造りの秘訣だぜ」
「聞こえているよ小娘ども」
次から次へと運ばれる料理を片っぱしから平らげるマダム。その細い体のどこに入るのか。私は不思議でたまらない。
「それで、なんだい、このネックレスがあればシャトルワースに入れるってわけかい?」
「多分ですけどねえ。私もまだ里帰りをしたことがないので」
マダムがネックレスを掲げた。屋敷を出るときにセルマから渡されたものだ。これがないと私も屋敷に帰れないんだよね。だからあまり手放したくなかったけど、約束をしてしまったのでマダムに預けることにした。私が帰るときはルドウィックに連れていってもらえばいいだろう。
マダムは訝しむようにネックレスを確認してからシュタークに投げ渡した。もう少し丁寧に扱ってほしいものだ。
「それと師匠のもとまで案内する件ですが、残念ながら私は同行できません」
「そいつは話が違うじゃないか。このネックレスが本物だって証拠もないんだ、お前にも来てもらう」
「いやあ、私も久しぶりに帰るつもりだったんですけど……ねえ、パシフィックさん?」
パシフィックが手紙を取り出した。
「王都に来るように命令が来たんだよ。フィリップ隊長から直々の呼び出し。しかも依頼主は軍の師団長ときたら、俺たちも断れなくてね」
まるで魔女騒動の解決を見計らったかのように今朝、早便で知らせが届いたのだ。内容は軍部から素晴らしい依頼をもらった、人手が足りないから今すぐ来い、というもの。旅費は軍部が出してくれるらしく、到着したら先方が歓迎会をしてくれるとのこと。私としても王都に興味があるので喜んで引き受けた。パシフィックは面倒くさそうだけどね。
「パシフィックだけ行けばいいだろう。メヴィは残れ。どのみちフィリップがいるなら戦力は足りているはずだ」
「それがメヴィちゃんもご指名を受けているんだ。要塞戦のときも思ったけど、君って意外と気に入られているんだね?」
「ひええ、とんでもないです……」
私は慎ましく生きたいだけなのだが、あの猪突猛進を体現したかのような男になぜかこき使われている。人気者は辛いです。
ちなみにマダム・リンダの構成員はよく働いてくれた。魔女の捜索はもちろんのこと、家を失った住民に花街の一角を貸し出したり、貧民街の復旧を手伝ってくれたりしている。街が早くも活気を取り戻しつつあるのは彼らが尽力してくれたおかげでもある。
だから可能な限り彼らの要求をのみたいんだけど……今回ばかりはフィリップ隊長の命令が優先だ。あの人を無下にしたらどんな報復が待っているかわからない。まあネックレスがあれば迷うことはないだろうし、大目に見てほしいです。
「ふん……まあいい。フィリップと争うのも面倒だ。まずは私たちだけで向かうとしよう」
「まずは?」
「お前たちにもそのうち協力してもらう。義勇兵は金さえ詰めば何でも引き受けるのだろう?」
「時と場合によりますかね……」
パシフィックに視線を向けると、励ますように肩をポンッと叩かれた。なぜか他人事のように笑う男。もしもの時は絶対に巻き込んでやる。
「そうだお前、小娘のわりに結構戦えるそうだな?」
「とんでもないですう」
「魔女と戦える人材は貴重だ。うちに入れ。面倒を見てやろう」
「遠慮しますう」
ギャングの仲間なんてごめんである。私は全力で首を振った。
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