第33話:忘れられた感情

 

 カタビランカの西方、深い森の河岸に少女が倒れている。濁流に流されたせいで服がはだけ、ボロボロになり、体にもいくつかの小さな傷が刻まれているが、少女はそんな濡れすぼった姿を気にもとめず、ぼんやりと空を見上げた。その脱力した姿はとても魔女に見えないだろう。


「やあやあエレノア。随分と解放的な場所で寝ているじゃないか」

「失せろ」

「ハッハッハ、第一声から辛辣だね」


 どこからともなく悠々と現れた新聞屋。彼を見た瞬間のエレノアの表情はまさに、神殿で毒虫を見つけたかのようだった。もしくはご馳走を振舞われたと思ったら嫌いな料理が混ざっていたかのようだった。“厄介者のルドウィック”。新聞屋の嫌われっぷりは魔女も共通である。


「ちなみにカタビランカを諦めたのはなぜだい? 君の実力ならあのまま沈めることなんて簡単だっただろう?」

「……お前、黙っていたな?」

「なにをだい?」

「あの小娘だ。魔女の関係者だろう。生を冒涜した呪痕……おおかた“輪廻”だな」


 エレノアはメヴィが魔女の弟子だと気づいていた。それほどメヴィの呪痕は異質だったのだ。輪廻の法則を捻じ曲げた存在。一歩間違えれば腐敗に飲まれかねない化け物。ゆえに貧民街の水が抜かれた時点でエレノアは街を去った。


「魔女同士で争わないと決まっている。魔女の弟子もまた然り。それが戒律だ」

「魔女協定ってやつ? あれは戒律じゃなくて暗黙の了解でしょ。しかも律儀に守っているのは君ぐらいだよ」

「ふん。人と獣を隔てるのは戒律の有無だ。欲を律してこそ人間だぞ」

「魔女が人を語るとは悪い冗談だよ。なんなら君、人の法に従うなら人殺しの犯罪者だからね」


 ルドウィックの指摘。無言で返すエレノア。森の小鳥がちろちろと鳴いている。


「都合の悪いことは黙る癖、変わらないねえ」

「何をしに来た。また私の後を追いかけるつもりか?」

「いいや、それはやめるよ。しばらく君と会わないだろうから、せめて別れの言葉でもかけようかなって」


 エレノアが意外そうに片眉を上げた。彼女にとって新聞屋の行動に興味はないが、長らく付きまとっていた虫が離れるとなると多少は感情が動く。


「今度は小娘に目をつけたか」

「メヴィちゃんは良いよ。勝手に問題を起こしてくれるから記事が書きやすい。君も悪くなかったけど、今熱いのはメヴィちゃんだね」

「水門を破壊したのも記事のためか?」

「もちろんだよ。街が沈んだとなれば新聞の一面を飾れるだろう。知っているかい、悲劇はよく売れるんだ」

「救いようのないやつだ」

「君に救われるのは僕もごめんだよ」


 ふん、と鼻を鳴らすエレノア。悪口の応酬は慣れたものだ。

 なんにせよルドウィックの興味が移ったのはエレノアとしても嬉しい。直接的な害こそなかったものの、常に追いかけられるのは鬱陶しかったのだ。肩の荷が降りたと上機嫌な様子。珍しく口角を上げながら自分の右腕を掲げた。


「見ろ。小娘の一撃で私の呪痕に傷がついた」

「爛れているじゃないか。痛そうだねえ。それってどうなるんだい?」

「放っておけば治るが、今は魔術の出力が落ちている。普段ほどの力は出せない」

「災難だね」

「悪いことばかりじゃないさ。ほら――」


 エレノアの視線が空に向く。どんよりとした雨雲。その一点へ。


「見ろ、青空だ。雲が晴れているんだ。ふん、日の光を浴びるなんていつぶりだろうか」


 雨雲のわずかな――それこそ閉じていた瞳を開けた程度の、小さな切れ目から青空が見えた。エレノアの力が弱まったからこそ見れた景色。差し込む光がエレノアに降り注ぐ。魔女になってから一度も見れなかった青空だ。

 エレノアの使命は乾いた大地に雨を降らすことであり、本来ならば雨雲こそ喜ぶべきもの。しかし、久方ぶりに見上げる晴天は美しく、たとえわずかな切れ目でも懐かしさを覚えるのに十分だった。


「ふむ。今の君なら僕でも殺せそうだ」

「ぬかせ新聞屋。協定違反だ」

「だから守っているのは君だけだって」


 しばらく無言で青空を見上げたあと、エレノアは立ち上がった。衣服を正してから天に祈りを捧げる。「黙っていれば可愛らしい信者なのにね」とルドウィックは内心で思った。エレノアの場合は目立たないように呪痕を隠しているから余計に子どもっぽく見えるだろう。


「次はどこへ行くつもりだい?」

「まだ決めていない」

「なら西方はどうかな。結構厳しい暮らしをしているそうだから、救いを求める人が多いかもしれないよ」


 ルドウィックはそれとなく西方を勧めた。西方蛮族とかみ合えば面白そうだ、というただの期待だ。彼としてはエレノアが暴れてくれたほうが記事を書けるので助かる。平和な土地よりも戦場に向かってくれると嬉しい。


「参考にしよう。お前も魔女に手を出すのはやめておけ」

「ご忠告ありがとう。君も気をつけてね。ぽっくり逝っちゃうと僕も悲しいからさ」

「記事が書けなくなるからか?」

「ハッハッハ」


 新聞屋の自分本位な考えを知ってか知らずか、エレノアは西方に歩き始めた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る