第2話 自己を定義するものを棄てよう
無機質で、光を放つビル、道路を走り続ける車、仕事帰りの社会人。様々な景色が窓から見える。
大都市を見ていると夢に溢れていることが嫌でもわかる。キラキラと輝いているこの都市は下級市民からしたら、理想郷に等しい。
あの仕事帰りの社会人はきっと中級市民なのだろう。昔は喉から手が出るほど欲しかった地位だったのに、それがもう少しで手に入る。
「もう少しでアオイくんも中級市民になるんだね」
「イズミさんのおかげです」
「ボクはただ、あなたの両親と取引しただけですよ」
イズミさんは微笑むように言う。下級から中級市民になることの難しさをイズミさんは理解しているのだろうかと疑問に思った。
今の格差社会で、下級市民から、中級市民になる方法は三つしかない。
・一つ目は、高校を卒業した後、学力試験で全教科で九割を取るという無理難題だ。学力があるものは、この社会に必要とみなされ中級市民になることができる。俺もこれを目指していたが、現実的に考えて不可能なことに近い。だけどこれで目指すしかなかった。
・二つ目は、社会へ莫大な利益を得ることができる研究結果を出すことだ。これも一つ目と同じように社会に必要だとみなされ、中級市民になることができる。現状の下級市民にそんな時間も、環境もない。だからこの手段は現実的ではないが、たまに運がいい人が成り上がっていくのを見たことがある。
・三つ目は、中級市民以上の存在に紹介してもらうという方法だ。下級市民と中級市民が関わることができるのは、仕事か学校だけだ。結局これも能力を認められた人が紹介してもらえるのだが、今回はこの方法を使って俺は中級市民になることができる。
向上心や、よほどの野心がなければ下級市民から中級市民になることは難しい。
並大抵の人間が試験などを受けたところで自分の実力を知って、絶望し、下級市民として生涯生きていくのを、受け入れるしかない。学力と超人的なメンタルがないと、中級市民になることはできない。
「中級市民になったらアオイくんは何したいの?」
「具体的にやりたいことはまだ決まってないですね」
「そっかー。じゃあこれからだね」
中級市民になりたいとはずっと思ってきたが、具体的に何がやりたいかと聞かれれば何もない。
漠然としているのもあって、唯一できる勉強だけを取り柄としていたが、勉強以外にできることはないため、その後のことについては何も考えていなかった。
下級市民と比べて中級市民の方ができることは増える。だからこれから考えるべきなのだろう。
「中級市民は何ができるんですか?」
「何でもできるようになるよ。ボクの場合はプログラマーになったよ。ボクの友人は薬の研究を今はしてるけど、どうにもうまくいってないらしい」
できることが増えると比例するかのように問題や、悩みは増えるようだ。どの階級にいても悩みや問題が尽きないことを見ると人間というのは難しいものだなと思う。
「アオイさん、二番の部屋へどうぞ」
受付の人に名前を呼ばれ、俺は席を立ちあがり、案内された通り部屋に入る。
「どうぞ座ってください」
「はい」
俺は緊張しながら、椅子に座る。受付の人と向かい合うような形になり、話が進んでいく。
「こんにちは。本日は階級変更でよろしいでしょうか?」
「はい」
「それでは階級変更をいたします。まずは顔写真を取らせていただきますね。こちらへどうぞ」
隣の部屋へ案内された。そこにはカメラらしきものと、モニターに映る自分の顔があった。これが証明写真機というものなんだろうか。生まれて初めて見た。
証明写真機のシステムに言われるがまま、写真を撮り、その写真を受け付けの人が回収する。
「この写真を貼りましてっと」
そう言いながら、カードを機械に差し込む。画面には俺の本名と写真、生年月日が書かれている。
このカードすら下級市民は持っていないため、何を示しているのかすらわからない。
「このカードは何ですか?」
「このカードは、市民階級カードと言われるものですね。カードは、上級層だけが持てる赤カードと中級層が持てる青カードだけで分かれており、これだけで自分の身分を表わすことができます」
「なるほど」
「ここに登録されている情報はあくまでも身分証明のための物ですので、くれぐれも無くさないようにしてくださいね」
「わかりました」
「これでよし。下級市民から、中級市民になりました。おめでとうございます!」
中級市民を証明するカードを渡される。こんな簡単に終わるものなんだろうか。
「これで終わりなんですか?」
「はい。案外あっけないものですよね」
「はい。もっと時間がかかるのかと思っていました」
「元々資料とかをいただいていましたので、今回はスムーズにいきました。イズミさんありがとうございました」
「いえいえ」
受付の人は、イズミさんにお礼を言っている。俺は中級市民を証明するカードをニヤニヤしながら見ていた。
これで俺も中級市民になることができた。その実感がやっと湧くことができた。
ここまで長かったかと言われたら、長かったような短かったような気がする。一般的に比べたら、短かったのだろうが、体感長かったように感じる。
「それじゃ帰ろうか」
「俺、帰る家ないですよ」
「そうだったね。なら慣れるまではボクの家に住もうか。それでいいかい?」
「はい!」
市役所からでて、また車に乗る。
いつの間にか時間は経っており、闇はさらに深くなっていった。
「疲れたでしょ?」
「ここまで長かったという今までの疲れが身体にきましたね」
「あはは。中級市民になった気持ちはどうだい?」
「すごくうれしいです! ありがとうございます!」
「いやいや、ここからだからね」
「はい。がんばります」
「その意気だ。ボクは君の味方だから応援してるよ」
満足そうにイズミさんは笑っていた。車が走り始めた。
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車は大都会から離れ、田舎の方へと走っている。違和感に気が付いたのは割と初めの方だ。
大都会から離れた時点で薄々気づいていたが、こちらの方面は下級市民が暮らす地域だ。この地域には戻るはず必要がないのに、車は走っている。
「俺、下級市民にまた戻っちゃうんですか?」
「……」
冗談を言ったつもりだが、イズミさんは黙ったままだ。何かに憑りつかれたように表情は死んでおり、俺の言葉に反応することはない。表情一つで人間はここまで怖くなるものなのかと思う。さっきほどまでフレンドリーでいたイズミさんはいなかった。
「これはどこに向かっているんですか?」
「……」
質問を投げかけても答えてはくれない。雨がぽつりぽつりと降り始めていた。
答えてくれないイズミさんを不思議に思いつつも道路にできている染みをみるか、見慣れた光景に目を移すしかなかった。
雨は段々強くなってくる。車の屋根を叩きつける雨はどこか心を落ち着かせてくれた。
「君を中級市民にしたし、これで君との約束は守られたよね」
しばらく走っているとイズミさんは言ってきた。
俺が中級市民になることは保証すると言っていた。その後のことは聞いていないが、どうするつもりだったのだろうか。
「ボクは君のことを少ししか見てないし、そもそも君のことは眼中になかった」
「何が目的だったのですか?」
「君のお母さんだよ。君のお母さんが目当てだったのに、結局振り向いてはくれなかった」
イズミさんはぽつりぽつりと外の雨のようにつぶやき始める。イズミさんが母親を好きになるのは仕方のないことだなと思う。
俺の母親は美人なゆえに傲慢な人間である。この男はそれに足る人材ではなかったのだろう。いや、最初から母親はこの男というより、お金や物でしかイズミさんを見ていなかったのだろう。
『息子が中級市民になったら、もっと楽なのにな~』的なことを呟いたのを聞き、俺を中級市民にしたのだろう。俺を中級市民にしたのはせめてものの慈悲と感じる。
イズミさんは恐ろしく冷たい眸をしていた。窓を少し開け、イズミさんはたばこを口に咥え始める。
たばこの煙が車の中を満たす。なぜかこの煙がイズミさんの孤独に見えた。肺に満たされた煙を吐き出すかのように口から煙を「ふぅ」と吐き出している。
父親がたばこを吸っていたこともあり、このたばこ臭さには慣れてしまっている。少し銘柄が違う気がするが、そんなに大差はなかった。
「俺はこれからどうなるんでしょうか?」
「あぁ、君はこれから叶新見に捨てられるんだよ」
俺は捨てられるのか。この男にとっては俺の母親に振り向いてもらえるための道具でしかなかったのだろう。要らなくなった俺は捨てられるだけだ。
「君は、中級市民でありながら、叶新見に捨てられたかわいそうで哀れな人間に成り下がるんだ」
イズミさんはどこか興奮気味の様子で、喋っている。
ストレスの発散先が目の前にいる俺になり、惨めな俺を見ることによって、怒りや嫉妬などの父親へのストレスや、自分の孤独や寂しく悲しい気持ちを惨めな俺を見ることによって解消することになるのだろう。
この男の方がよっぽどかわいそうではないか。
車は見たことない風景を映し出していた。この夜という闇の暗さにも慣れてしまった。
都会要素があったビルもそこら辺にあった家もなくなっていく。周りには目に余るほどの森と廃棄物。
雨漏りしてそうなボロボロな屋根の家、全てが都会と比べて衰えており、下級市民が暮らす田舎街よりも衰えている。一言で言えばみすぼらしい場所であった。
実際に目にすることは初めてだが、これが叶新見という貧民街であることは一目見てわかった。
「ほら、降りろ」
突き放すような声とともにイズミさんは俺に指示する。
イズミさんにも温情は残っていたのか、車をしっかり留めてから俺を降ろす。
俺は言われるがまま車から降りる。俺が降りたのを確認すると、男は逃げるように暗闇へと消えていく。最後に見た男の眸は雨よりも冷たく、心を突き刺してくるような眼をしていて怖かった。
「こんな形で自由を手にするなんてな……」
俺はこの状況を冷静に受け止めていた。車の中にいる時間が長かったのもあり、時間をかけて受け止めることができた。
自分の身分も捨て、繋がっていた保護者にも売られ、拾ってくれたイズミさんにもまた捨てられる。自己を定義するものを棄ててしまった俺は自由なのだろう。
あるはずのない幸せな未来図を知っている家族と知らないサラリーマンによってあっけなく破られてしまった。
元来た道を戻ろうとしても暗闇で前が見えないのと、車で途方もない時間を走っていたのだから、徒歩で帰れる距離ではないのだろう。
しかたなく、叶新見の入り口にある門を見上げる。夜空も相まって更に闇が深くなっている。
このままいても意味がないため、門をくぐる決意をし、俺は中級市民のカードを持ちながら事実上の最下級である不可触民へと成り下がった。
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