31:エピローグ(1)

 エルシーの手を取ったライナスは、以前のように庭へとエルシーを連れ出した。フィルは、庭園への出口の辺りで立ち止まり、それ以上近づいてはこない。

 

 庭園は相変わらず美しい。花は生き生きと咲き誇り、緑は青々としていた。生を感じるその光景が眩しく、エルシーは少しだけ足元が覚束なくなる。


「大丈夫?」

 

 ライナスは、ふらついた彼女の腰に片腕をまわして支えた。

 

 エルシーの胸がどきりと鳴る。ライナスにうるさいくらいの鼓動が届いてしまうかもしれないと思う気持ちと、きっとこんなに近くにいられるのも最後だろうと思う気持ち。

 

 二つの相反する感情を天秤にのせ比べて、エルシーは、今はこのまま身を任せることにした。


「平気です……けれど、このままでもよろしいですか?」

「もちろん」

 

 フィルの視界から出ない程度にはなれた場所には、あの噴水とベンチがあった。二人はそのベンチに隣り合って腰掛ける。

 

 エルシーには、一つだけ気になっていることがあった。聞くか聞くまいか悩んで、ライナスにちらりと視線を送る。

 

 ライナスは彼女の方ではなく、正面にある植物を眺めていた。その横顔からは憂いは読み取れない。


 先程の会話では、ライナス自身のことについては何も話されなかった。けれど、実の母に命を狙われていたことを知り、さらに目の前でその最後を見て、何も思わない人などいないはずだ。


 エルシーは、迷っていた。踏み込むべきか、ここで留まるべきかを。


「殿下」

「エルシー」


 話しかけたタイミングがまるきり同じで、エルシーは反射的にどうぞとライナスに先を促す。ライナスは微笑んで、再度口を開いた。


「先ほど、少し足元が覚束なかったようですが、まだ痛みはありますか?」

「もう大丈夫です。先ほどは、久々の外になんだか目が眩んでしまって」

「そういうことでしたか。ずっと医局に籠りきりでしたから、無理もない。安心しました」


 そう言って隣で微笑むライナスは、今、辛くないのだろうか。聞いても、拒絶されるかもしれない。少しだけ指先がこわばる。

 

 そんなエルシーができる質問は、これが精一杯だった。

 

「あの、殿下こそ、大丈夫ですか?」


 首をかしげるライナスに、エルシーは視線を下に逸らして膝の上に置いたこわばった手をぐっと握りしめる。

 

 やはり、もう婚約者でなくなる者に心の内など話したくないだろうか。


 けれど、今話さなかったら、誰が彼とこの記憶を共有できると言うのだろう。次の婚約者は、このことを知ることはできても、同じ記憶を持つことはできないのだ。


「何がです?」

 

 ライナスは微笑んだまま、何やら考え込んでいるエルシーの様子を観察する。ここでもしエルシーがこちらに踏み込んでくるのなら、その時は手放さないと決めていた。

 

 そんな自分がずるい人間であることは十分理解している。だから、そうするかどうかの選択はあくまでエルシーに委ねていた。


 エルシーは、ゆっくりと顔を上げ、その灰色の瞳でライナスを射抜いた。

 今この時、殿下に寄り添えるのは自分だけだと思いたい。


 ライナスは少しだけ息が止まるような心地になって、それでも表情から微笑みを消すことはなかった。


「殿下、辛いこと悲しいこと、お話ししてください。私はもう婚約者ではなくなりますが……でも、どんな立場となっても殿下をお支えしたいと思っています」

「……エルシー」

「はい」

「私の任命式の前に不安はありましたか?」


 ライナスの突然の質問にエルシーは首を傾げ、ひどくライナスが真面目な顔をしていることに気づいた。

 

 きっとこの答えが、彼がエルシーに話すか話さないかの分かれ道となるのだろう。直感的にそう思った。


「いえ、何の不安もありませんでした。……しいていえば、事件が本当に解決するかということだけは少し心配でしたよ。けれど、殿下のことを信じていましたから」

「……そうですか」


 エルシーはやはり最初に感じた通り、物怖じするような女性ではない。それは、ライナスが一番よく分かっていたのに、何を臆していたのだろう。

 

 安堵のため息を漏らし、自分の前髪をくしゃりと触った。エルシーからはライナスの表情が見えなくなる。


「エルシー、聞いてもらえますか?」

「はい、もちろん」

「……今回のこと、傷ついていないなんて言ったら嘘になります。今も信じられない。あの優しかった母上が私が死ぬことを望んでいたなんて。ただ、そこまで思い詰めるほどの精神状態だったことに、一度も気づかなかった自分にも嫌気がさすんです」


 あれから、執務をしている時、眠る時、何気ない時に、母から言われた言葉が、その表情が思い浮かぶようになった。

 

 もしかしたら、これからずっとあの幻影を抱えて生きていかなければいけないのかもしれない。それに怖れを感じていた。

 

 一国の皇太子として、こんなふがいない姿は、誰にも見せられない。こうして話すのは初めてだ。

 

「……ご自分を責めていらっしゃるのですね。ジョイも言っていました。王妃陛下の心の内は誰にも理解できなかったと」

「えぇ、私もジョイから話は聞きましたが、やはり理解できなかった。理解してはいけないのだとも思いました。だからこそ、今も母を憎みきれないでいる」


 ライナスはいつもの穏やかな声色ではなく、少しだけ低い声で苦しそうに言葉を紡ぐ。もしかしたら、体が震えそうになるのを抑えつけているのかもしれない。

 

 いつも優秀な彼は、きっとこんな自分を隠すべきものだと思っている。エルシーはそう思いながら、言葉を探した。

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