第6話 ライブカメラ
パチスロのことを思い出していると、本当に時間があっという間だった。別に世界に行ってから、少しして戻ってきたかのようなそんな感覚になっていた。
それが、宇宙に飛び出して、戻ってきたような感覚になったのは、何とも皮肉なものである、
というのも、昔のSF映画で見た話しだったが、そのセリフの中にも、ハッキリと、
「アインシュタインの相対性理論」
という言葉が出てきた。
もっとも、アメリカ映画だということもあって、翻訳での字幕ではあったが、よく聞いてみると、
「アインシュタイン」
という名前を言っていたのは間違いないようだ。
正体性理論の中で、速度と時間の関係性について語っているところがあった。
つまり、
「光速を超えると、そこでの時間が進むのが遅くなる」
ということであった。
つまり、宇宙に飛び出して帰ってくると、宇宙船の中は、1カ月しか経っていなくても、地球上では、数百年が経過しているということだった。
そのアメリカ映画も、それにならった形だったが、子供の頃、なつかし映画ということで見たのだが、これが、今から40年以上も前の映画だと思うと、
「すごいな」
と感じた。
ただ、SFチックな映画や、スペースファンタジーものの元祖はもっと古くからあったようで、その映画の頃が、第一期の絶頂期だったのかも知れない。
ただ、アインシュタインの、
「相対性理論」
という考え方を用いると、日本の昔話を理論的に説明できてしまうのだ。
しかも、おとぎ話や昔話の類は、室町時代に作られたものが多い。
室町時代というと、1300年代半ばから、1500年代後半くらいまでということになるので、500~700年も前のこととなる。
しかも、これらの伝説は、各地方に似たようなものが残っている。
ということは、おとぎ話として編纂されたものの、この物語は、もっと古い時代から。口伝されてきたものではないかと思える。
そうなると、さらに昔ということになるではないか。
この話というのは、そう、誰でもピンとくると思うのだが、
「ウラシマ太郎」
の話である。
浦島太郎という青年が、丘に上がってきた亀が苛められているところに遭遇し、子供たちから亀を助け、その亀が、
「お礼に」
ということで、竜宮城に行き、そこで乙姫と幸せな日々を数日過ごしたのだが、家が恋しくなったということで浦島太郎は、乙姫に別れを告げて、亀の背中に乗って、また丘に戻ってくる。その時に、
「決して開けてはいけない」
と言われる、玉手箱を土産にもらったのだが、丘に戻ってみると、知っている人が誰もいなくなっていた。
そこでその世界が未来だということに気づき、太郎は失意の中で、玉手箱を開けると、おじいさんになってしまった。
というのが、大まかな話であった。
ただ、この話を聞いて、皆、おかしな気持ちにならないだろうか? モラル的におかしいと思わないか? ということである。
「浦島太郎は、亀を助けるといういいことをしたのに、どうして最後は、おじいさんになってしまうという末路を演じなければいけないのか、理不尽ではないか?」
ということである。
確かに、学校で習ったような話であれば、ここで終わりなのだが、実際には続きがあるというのだ。
それは、ハッピーエンドの話なのだが、そうなると、このお話は、実は、
「ラブストーリーだった」
ということになるのだ。
今までのお話は、おじいさんになってしまったところで終わっている。普通であれば、その終わり方は中途半端な気もするだろう、
まあ、考えてみれば、おとぎ話の類は、結構よく分からないような終わり方をしているもので、
「あれ? いいのか?」
と感じることも少なくはないだろう。
それにしても、浦島太郎のお話は、そんな中でも特別な気がする。何と言っても、おとぎ話というと、どうしても、
「教訓」
ということがポイントだからである。
亀を助けたのに、最期は老人になってしまうというのは、どうにも解せない。浦島太郎が何か悪いことをしたとでもいうのだろうか?
そもそも、おとぎ話というのは、教育上、明治政府が、教科書に載せるところで、審議をしたというが、浦島太郎の話としては、
「亀を助けた」
ということよりも、
「開けてはいけない」
と言われていたものを、開けてしまったということの方に重きが置かれ、そのために、いいことをしたのが打ち消されてしまったのだ。
いいことをしたのは、竜宮城に連れて行ってもらったことで、チャラになり、その後の約束を破ったということを重要視し、そのため、おじいさんにさせられる話に変えられたのだ。
実際のお話は、おじいさんになるところまでは同じで、そこから先があるのだった。
まず、おじいさんになった浦島太郎は、その後、鶴になるのだ。
そして、太郎を慕っていた乙姫が亀になって、地上に上がり、太郎と結婚し、幸せに暮らしたというのが、本当の話だと言われている。
つまり、
「鶴亀伝説」
はここから来ているのだ。
「鶴は千年、亀は万年」
という長寿のことわざ、それこそが、浦島太郎の話の真髄なのである。
そして、浦島太郎というのは、もう一つ大きな問題を秘めている。
そう、
「どうして、竜宮城では数日だったものが、地上に戻ると、何百年も過ぎていたというのだろうか?」
と考えれば、今の時代であれば、まずほとんどの人が頭に思い浮かべる発想が、
「アインシュタインの相対性理論」
であろう。
まず考えるのは、
「浦島太郎は宇宙に行っていたということか?」
ということである。
光速で移動し、本人は数日だと思っていたのが、数百年経っていた。そう考えるのが、順当である。
もう一つの考え方として、
「楽しい時というのは、時間が経つのがあっという間なので、気分的なものだった」
というのがあるが、これはいささか無理がある。
人間の寿命は、普通、数十年だ。特にこの時代は、
「人間五十年」
と言われていた時代ではないか。
しかも、まったく年を取っていないわけである。ただ、これも発想としては、
「楽しいことばかりでストレスがなければ、人間は本当は年を取らないのではないか?」
といえるのではないかと考えていた。
だから、本当は年を取ったのは、玉手箱を開けたからではなく、急激に時間が経ってしまったことで、
「取るべくして年を取ってしまったので、一気におじいさんになった」
ということかも知れない。
本当は、玉手箱をあけると、鶴になって、鶴であれば、1000年生きるのだから、まだまだ生きられるということだ。
しかし、ここでもう一つ不思議なことがあった。
「なぜ、乙姫は、亀になったのだろうか?」
ということである。
亀は万年である。
ということは、浦島太郎よりも、9000年も長生きするわけだ。
「好きな人が死んでしまってから、9000年も一人で生きることになるのに、耐えられるのだろうか?」
と考えたが、これはあくまでの人間としての考え方で、動物であれば、
「好きな人が死んでしまったら、次に好きになる人を探せばいいんだ」
ということなのかも知れない。
確かに、人間同士なら、ほとんど、寿命は変わらないが、亀のように、本当の長寿が他の動物と恋に落ちると、自分だけが生き残ることになる。
その寂しさを埋めるのが男しかいないのだとすれば、死んでしまった相手を思い出として忘れることさえしなければ、次に行っても、それは悪いことではないというものだ。
人間だって、伴侶に先立たれ、再婚することを、誰が悪いなどというだろうか? すべては本人の気の持ちよう。モラルとしても、決して悪いことではない。浮気や不倫をする人間だってたくさんいるわけなので、それくらいのことを悪いかのようにいうやつの方がよほどひねくれていて、逆にいえば、捻くれなければならないほど、自分の中に後ろめたさが秘められえているのかも知れない。
そんなことを考えてしまうと、浦島太郎の話が、
「矛盾だらけだ」
といっているのが、どこかバカバカしく思えてきた。
「おとぎ話はこうあるべきだ」
という、教育上の観点からの勝手な思い込みによって、そんな気持ちになるのだとすれば、それはある意味、人間の、いや、
「その人のエゴ」
なのかも知れない。
浦島太郎の話をそんな風に少し角度を変えて見てみると、
「本当にこれは、相対性理論というのを分かって書いたのだろうか?」
とも思えてきた。
確かに、話が中途半端な、おじいさんになったところで終わっているのであれば、相対性理論がクローズアップされるかも知れないが、実際には、
「鶴亀伝説」
に繋がるものがあるのだとすれば、それは、テーマが、
「長寿」
ということになるだろう。
そうなると、鶴亀の発想を理論的に書くために、
「陸に上がると、数百年が過ぎていた」
という発想が必然的だったのかも知れない。
つまりは、相対性理論などという発想は、アインシュタインが提唱したことであり、それを勝手に日本人が、おとぎ話に結びつけただけなのかも知れない。
もっと言えば、アインシュタインは、この浦島太郎の話を知っていて。いや、この話というよりも、各地に伝わる口伝のどれかを知っていたともいえるが、この発想があったことで、相対性理論を考えるうえで、他の人よりも柔軟に考えることができたことで、相対性理論を完成できたのかも知れない。
そういう意味では、
「何も相対性理論の発見は、アインシュタインでなくても、できたのかも知れないが、これほど早くできたのは、彼が日本の口伝を知っていたからではないか?」
といえるのかも知れない。
それを考えると、アインシュタインの発見は必然ではあっただろうが、逆に彼でなければいけないということもあったのかも知れない。
そもそも、アインシュタインは、科学の分野だけでなく、政治に首を突っ込んでしまったことによる。
「アインシュタイン=シラードの手紙」
なる。悪魔の手紙が、ルーズベルトに送られたことで、ヒロシマ、ナガサキの悲劇が起こってしまったという事実もあるのだった。
そして、それこそが、人間が、
「開けてはいけないパンドラの匣を開けてしまった」
ということになるのだろう。
パンドラの匣の話では、最期に、
「希望が残った」
というようなことが言われているようだが、本当のことなのだろうか?
今の世の中の、
「核兵器への呪縛」
が、半永久的に人類を呪っているのだとすれば、それが解けるのは、
「人類が滅亡する」
というその時しかないのではないだろうか?
そんなことを考えていると、アインシュタインも、結局は、浦島太郎のように、
「開けてはいけない」
というものを開けてしまったという意味で、その罪は、それまでの科学への貢献のすべてを台無しにしてしまうだけの効果があったのかも知れない。
またしても、余計なことを考えていると、本当に時間があっという間に過ぎていたようで、気が付けば、セミナーの時間になっていた。
最初は数名だった会場も、結構埋まってきていて、すでに八割がた埋まっているといってもいいだろう。
講師の先生が入ってきて、スマホの活用について話を始めた。
先ほどまで、妄想に近いような壮大なイメージを抱いてしまっていたことで、講師の話が、どうにも薄っぺらく見えてきた。
「当たり前のことを当たり前に話している」
というだけで、相手は有名な先生らしいのだが、そんな先生が、皆に分かるようにと、話をすると、しょせんはぎこちないものになってしまって、聴いていて、違和感しかないのだった。
「そんなことは、テキストに書いてあるんだろう?」
と、いちゃもんをつけたくなるくらいだったが。まさかそんなことが癒えるはずもなく、ただ黙っていたが、次第に、今度はここから、また時間がゆっくり進むようになってしまった。
まるで浦島太郎になってしまったかのような気分だった。
ただ、ライブカメラの話は、それなりに面白かった。
「なるほど、今の世の中って、いつどこで、誰から見られているのか分からないわけなんだな」
ということを感じていた。
先ほどまでの、浦島太郎の発想として、校則で宇宙に飛び出す、相対性理論であったり、万年生きる亀の話であったりと、無限であったり、半永久的という言葉が、裏に潜んでいるような、壮大な発想を抱いていたのに、今度は、ピンポイントなライブカメラの話を想像するというのも、おかしなものだと感じていた。
講師の話によると、
「今の時代は、GPSによって、位置情報がある程度分かるようになっているので、その位置情報を元に、実際に、リアルな状態が、ネットで公開されるようになっていて、例えば、住所を打ち込めば、その住所の風景が、スマホに、ライブカメラとして映し出されるようになっているんですよ」
というではないか、そして、
「だから、これだったら、ミステリーなどにおいて、アリバイトリックを考えるというのは、かなり無理があるかも知れないですね」
というではないか。
「ああ、なるほど」
と考えてみたが、あくまでも、それは、講師の笑わせようという、気分転換な発想で、実際にはそんなこともないだろう。
ただ、実際に、今は、いたるところに防犯カメラがあるのも事実である。強盗や空き巣などはこれによって、かなり防止できるだろうし、今は車の中にも、ドライブレコーダーとして、映像を残すようにしている車の結構ある。
それは、数年前から話題になっている、
「あおり運転」
なるものが原因で、ただ、あおり運転というのは、昔からあったような気がする。
それがいまさら話題になるのは、それだけあおり運転がひどくなったからなのか、最近のように、どこにいても、コンプライアンスなどという言葉に縛られる世の中なので、
「自分の身は自分で守る」
ということでの証拠を持つという発想が、次第に現実味を帯びてきたからなのかも知れない。
そう思うと、ライブカメラもドライブレコーダーも、一時のブームなのかも知れないが、それが当然のことのようになり、
「生活の一部」
になってしまうのではないかと思うのだった。
話を聞いていると、ライブカメラは、いろいろなところに、侵入しているという。
「あなたの家も、ライブカメラで監視されているようなものですからね。これは、防犯ということと、さらに、プライバシーという意味でのジレンマ、板挟みになっているといってもいいかも知れませんね」
ということであった。
確かに、防犯カメラは必要だろう。何かがあっても、犯人の特定につながる。そして、本来であれば、一番の目的として大切なのは、
「犯罪の抑止」
といえるのではないだろうか?
それは、いわゆる、
「核兵器開発」
と同じで、
「相手よりもさらに強力なものを開発する」
というのが、スパイラルだった。
つまり、最初にこっちが強力なものを作ってしまうと、相手は、
「後れを取ってはいけない」
ということで、急いで開発を始める。
そしてさらに、追い越されないようにと、同じようにさらに強力なものを開発しようとする。
これがいわゆる、
「血を吐きながら続ける。悲しいマラソン」
ということになるのだ。
そもそも、開発目的が、相手よりも強力なものを作ったとして、どうなるというのだ。打ち込まれれば終わりではないか。
しかし、
「一つの檻の中に、二匹のサソリを入れるのと同じことだ」
と言われるのと同じで、
「確実に相手を殺すことはできるが、逆に、こっちも命を失うことになる」
という相打ちになってしまうのが、必然であった。
しかも、核兵器を持っている国は一つではない。もし、どこかが打てば、同盟を結んでいる国も打つことになり、結局、一発のトリガーを引いてしまうことは、全世界の滅亡を意味することで、完全に、
「サソリのバトルロイヤル状態」
であった。
ただ、不思議に感じるのは、
「ヘビが、自分のしっぽを、どんどん飲み込んでいく」
というような意識が頭にあることだった。
確かに、そのまま飲み込んでいくとどうなるのだろう? もちろん、身体が軟体動物のようにいくらでも、歪めることができると仮定した場合のことであるが、最期は食い切ってなくなってしまうことになるのだろうか?
それこそ、
「メビウスの輪」
を見ているようで、この発想が頭をよぎった時、いつも、
「異次元をイメージしているんだ」
と感じるようになったのだ。
そう、話は逸れたが、抑止力というものは大切なのだ。だからこそ、戦争にならなかった。初めてしまって、核戦争を引き起こせば、もう、元に戻ることはできないことを、人間は知っているからだ。
しかし、知ってはいても、
「不測の事態」
というものに逆らうことはできない。
もし、どこかの国の支配者が、少し頭の弱い人間だったとして、今までの国家元首であれば、我慢できたものを、勝手に核ミサイルのボタンを押さないとも限らない。そのため、先進国で、核のボタンを持っている人は、自分の部屋だけの操作では決して、ミサイルが発射できないようになっている。
そう、何か大切なものを金庫に隠そうとした時、一人が知っているだけでは不安だが、だからと言って、複数が知るのは、もっと恐ろしいと考えた時、
「一人が、ダイヤルの番号を知っていて、もう一人がカギを持つ」
ということにしておけば、二人が一緒にならない限り、金庫は開かないわけだ。
もし開いたとすれば、少なくとも、
「二人の共謀」
であることは間違いないということだ。
あるいは、何らかのトリックを使った。
「例えば、秘密の書類を隠した時には、すでに、カギは他の人に渡っていた」
などという、いわゆる、
「時間差トリック」
が必要になる。
つまり、密室トリックと、時間差トリックとは、結構密接したところで絡んでいるということになるのだろう。
畠山は、昔の探偵小説を読むのが好きだった。戦前くらいの時代の小説が、ドロドロした感じで、しかも、今とはまったく違う時代背景で、科学も発達していなかったので、トリックも結構、いろいろ仕えたであろう。
今であれば、ほとんどのトリックが使えないかも知れない。
特に、
「顔のない死体のトリック」、
いわゆる、
「死体損壊トリック」
と呼ばれるものだ。
要するに、死体が誰なのかバレないようにするトリックで、よくありがちな謎解きとして、
「被害者と加害者が入れ替わっている」
というものがあったりした。
というのは、
「被害者になることで、自分が死んだことになれば、15年姿をくらましていれば、時効となる」
ということがあったからだ。
実際に、それを狙った犯罪も結構あったのだが、なかなか難しいだろう。
15年という期間、逃亡しなければいけないのだ。お金の問題、精神的な問題、いろいろあるに違いない。
ただ、今ではそれはまったくの不可能になった。
まず、死体損壊して、例えば首がなかったり、特徴のある部分を傷つけていたとしても、今の技術で、
「DNA鑑定」
をすれば、肉親のDNAと比較して、かなりの確率で、親族関係を証明できるというものである。
さらに、この犯罪を不可能ならしめる確定といってもいい事実として、
「殺人の時効が撤廃された」
ということだ。
つまりは、いくら逃げ回ったとしても、死ぬまで、容疑者であることに変わりはない。大手を振って歩けることにはならないということである。
そうなると、逃げるだけ無駄であり、死刑にでもならない限りは自首して出てきた方がマシだというものではないだろうか?
そういう意味で、
「時効の撤廃」
というのは、犯罪の抑止にもなるし、少なくとも、死体損壊トリックというものを、不可能ならしめるという意味で、重要な抑止だと言えるだろう。
さらにもう一つのトリックとして難しくなったのは、
「アリバイトリック」
ではないだろうか?
前述のように、どこにでも、防犯カメラや、ライブカメラが設置してあり、車の中にも、ドライブレコーダがあるのだから、人がいなくて、目撃者が見つからないということは、ほぼありえない状態になっている。
空き巣であっても、強盗であっても、カメラに写っている。中には、そんな防犯カメラを逆手に取って、曖昧な動画をわざと目立つように映すことで、
「カメラに写っている」
という思い込みを犯させることで、錯覚させるという、逆のトリックもできるかも知れないが、それはかなり高度なもので、一般的なトリックに向くものではないだろう。
そういうことを妄想していると、実際に受けているセミナーの話が、いつの間にかシンクロしていっていることに気づき、思わず苦笑いをしてしまった。
それを感じながら時計をみると、思ったよりも時間が過ぎていて、気が付けば、そろそろ入場してから二時間。そろそろ、セミナーもお開きになる時間だった。
そんな時間に、シンクロするというのも、面白いものだと思い、苦笑いが止まらない自分を感じたのだった。
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