神奥の大地

唯響

神奥の大地

 明治中期、世界が帝国主義を掲げ侵略を繰り返していた時代。辺境の島国である日本も日清戦争を経験し、一等国へと脱皮を始めていた頃の話。


 北海道南部、現在の松前郡福島町に住む士族の松浦林蔵は、代わり映えしない日々に辟易していた。


「生まれてこの方、某(それがし)はこの田舎町で、日々を無為に過ごしている。日本は外に出(いで)て活路を見出したというのに」


 日本は眠れる獅子と呼ばれた大国の清を撃破し、世界に衝撃を与え、国中は沸き立っていた。白人国家であるロシアとも緊張状態にあるという話もあるが、国民は戦が行われることを恍惚としながら望んでいた。多くの命が奪われることを、国民は日本の威信をかけた戦いだと誇らしげに考えているようであった。


 林蔵は、それを下らないと考えていた。というのも彼は士族であるが、明治政府により俗に廃刀令と呼ばれる布告があったので自身の刀すら持っておらず、戦に何の憧れもなかったからである。そればかりか、戦などただ酷く非道なことのように感じていた。


 刀を持ち、国に仕える選ばれし身分たる士として生きたのは、祖父の代までである。父の一蔵はそんな祖父の姿を知っているので、今でも武士の誉れを大切にしている時代遅れな男である。


 父の一蔵は実態のない士族としての誇りを大切にし、今でも家宝の刀を大切にしている。また仏教や神道の神仏を心の拠り所とし、正月には海を渡り伊勢のお社へ参拝をすることが習慣である。

 その生真面目さの反面あまり柔軟な思考を得意とせず、一蔵の弟であり林蔵の叔父である武四郎が長崎でカトリックに改宗した際は、問答無用で彼を破門した。神様が違うというのは、人の心を荒々しくさせるのである。


 林蔵は、武四郎の事が好きであった。頭が柔軟で、幼い頃から父よりも彼から多くのことを教わったと言っても過言ではなかった。


 最後に彼と会った時、カトリックの神様の話をした。


「いいか林蔵。カトリックは一神教と言って、神様は一柱しかいない。日本には八百万(やおよろず)の神様や仏もいる。そこには、神様を全知全能と位置づけるか、ありとあらゆる場所に神様が宿っているかという違いがある」


「どっちらがより優れているのですか?」


「どうだろうね。一神教は他の神様を認めないから、それを理由にして戦を起こし続けてきた。そういった意味では多神教の方が優れているのかもしれない」


「そうなのですか……。日本の信仰は正しいということですか。神州などと誇らしげに自称する姿を滑稽に思うのは某のみなのでしょうか」


「少しひねくれているが、君の言うことも否定はできんだろうな。神仏や一蔵のいう武人の誉れも、所詮は実態のない概念でしかない訳だが……これらに共通する、尊さというのは難しい価値観だな」


「神仏の正しい姿を見つければ、某は今より楽になれる気がします」


 これ以来、林蔵は神仏とは一体なんなのか、考えるようになった。八百万の神様というのも、仏というのも、所詮は概念である。つまり、古(いにしえ)の世界では説明がつかなかった出来事や人の心の移り変わりを表した、表現に過ぎないのではないか。


 蘭学と呼ばれる西洋の先進的な学問は、これまでの世界を一変させた。神様は科学によってその神秘のベールを剥がされ、祟りを恐れることがなくなった世界は、血で血を洗う終わりなき争いが続けている。


 林蔵は世の中に嫌気がさしていた。


「やはりここを出ていきたい。お国だのなんだのくだらない。ここにいては常に枠や壁を感じてしまうが……そんなものに囚われず、どこかで心健やかに生きていきたいものだ」



 林蔵の中にそんな気持ちが芽生えていたある日、彼は父の一蔵に狩りに誘われ、森の中へと入っていった。


「いいか林蔵。優れた士というのは、常に鍛錬を怠ってはいけない。年端もいかないお前は清との戦には奉公できなかったが、次は露西亜(ロシア)との戦も起こるだろう。その時に備えて、獣の狩り方を覚えておかなくてはならんな」


「父上の仰る事は確かですが、ここは本州ではないのですよ。松前郡の熊は、本州の熊よりも大きく気性が荒いと聞きます。ご先祖様の武勇伝のようにはいきませんよ」


「所詮は害獣だ。日ノ本の誉れ高い武士(もののふ)の敵では無い。農民上がりの民草が海を渡り異人を叩きのめしたのだ。武士の血を引くお前なら、害獣など恐れてはいけないぞ」


 そんな事を話しながら森の奥深くへと入っていった。降り積もる雪は森の奥に入れば入るほど、深く積もり、足取りを悪くしていった。


 そんな時であった。


「林蔵、危ない!」


 数メートル先の獣道から、一匹の熊が目にも止まらぬスピードで、松浦親子を目掛けて走ってきていた。その黒い塊は巨大で、口から絶え間なく吐き出される呼気は白く、まるで鉄道のように感じられた。


 一蔵は刀を抜くも、その目は絶望していた。一蔵の目の前で両足立ちとなり両手を広げた熊は、一蔵の倍はあろうかという背丈であった。


 熊の一撃を辛うじて防いだ一蔵であったが、数秒もしない内に雪の上に倒れ、動かなくなってしまった。


 血走った熊の目が、林蔵の方へと向いた。目の前で、必死の抵抗を試みながら倒れた一蔵と、自分を見つめる熊を見た林蔵は、どこか恍惚としていた。不思議と恐怖や震えはなく、これが自然の営みであると感じ、どこか心のつっかえが取れた気がした。


 熊が手を広げ、林蔵に一撃を加えようとした瞬間。周囲に、銃声が響いた。熊は苦しそうにもがく。更に数回銃声が響き、遂に熊は倒れ、動かなくなった。


 どうやら、助かったようである。


「大丈夫ですか」


「あ……あなたは、マタギの方ですか。某の言葉が聞き取れますか?」


「あなたはアイヌ語が上手ですね」


 マタギの男は、北海道の先住民族であるアイヌ人であった。


 北海道は日本の支配下に入った後も、全地域に日本化教育が行き届いた訳では無かった。


「和人の叫び声が聞こえたので来たのですが、お連れ様をお救いできなかった」


「良いのです。仕方の無いことなのですから」


「それより、あなたは流暢なアイヌ語を話しますね。お侍の方ですか?」


「一応はそうですが……しかしそんなものは名ばかりです。しかしそれ故に自由を制限され、窮屈に生きております。そういえば、アイヌの方々には身分もなく、自由に生きておられると聞きますが本当なのですか」


「珍しい方だ。和人は皆、国を持たず、神の恵みに感謝し生かされているという考え方を見下す。それを自由と前向きに捉えるのは、なんと珍しいことでしょうか」


「威信のない者を見下さないと、この時代を生きていけないのです」


「そうですか。それはそうと、長居は禁物です。ひとまず近くにある私のコタンへ案内いたしましょう」


 村へ案内された林蔵は、彼の家に入った。

 彼の名前はマタと言い、多くの同胞が和人と同化していく中、森の中で伝統に従い生きていた。


 彼は、熊の肉を持てるだけ持ち帰ってきていた。


「熊はキムンカムイと言って、神様です。私たちは神様をカムイと呼びます。カムイのお命を頂戴したのなら、その肉を食べて自らの糧とします。そうすれば魂は神様(カムイ)の世界であるカムイコタンに帰り、また肉を付けて現れてくれます」


 彼らはこうして狩猟をすることで生きている。林蔵はその生き方を素敵なものだと感じた。ただの獲物ではなく、恵みを与えてくれる存在を神様として崇め、ただ感謝をする。その名の下に優劣を競うことも無く、ただ自然の恵みの中で生きていく。


 熊や鮭を食べ、ラッコの皮を売り買いし、清い川の水を飲んで、木々を加工し家や道具を作る。全てが自然という名のカムイの営みの中にあり、人もまたその摂理に従うだけの存在なのである。


 彼らには威信や尊厳などない。だが彼らアイヌ人には貧困もなかった。


「林蔵さん。アイヌはカムイがこの世コタンコロをお創りになった時から、ずっとこの暮らしをしています。アイヌは農耕などというカムイの土地を破壊することもせず、それによって貧富の差を生むこともありませんでした」


 林蔵は耳を傾けていた。


「外国との貿易で手に入るものは多く私たちの生活をより豊かにしました。しかし、彼らは常に疲れています。より金銭を得ようと嘘もつきます。私は和人のあなたに率直に聞きたいのだが、あなた方は幸せなのですか?」


 林蔵は答えに窮した。閉口するしかなかった。彼はカムイと共に生きるだけというその精神が、なによりも美しく感じていたのだ。


 その生き方は、父の一蔵から教わった、老子の言葉「足るを知る」というのを体現しているのである。閉口する林蔵にマタは言った。


「何も言わないということは、つまり答えを言っておりますね」


「マタ殿、幸せとはなんでしょうか」


「それはカムイと共存していくことです。生まれてから死ぬまで、カムイに関わり、死後その身は大地の糧となり、カムイに恩返しができる。これで良いのです。必要のないものを生むから、人は人や自然を傷つけてしまうのです」


 林蔵はマタの言葉に感銘を受けた。自分たちは、神仏の尊び方を間違えたのだと感じた。


「某は、神様の在り方について悩んでおりました。一神教は他を受け入れないので多神教の方が優れていると言われ、困惑しておりました」


 マタは耳を傾けていた。


「しかし正しい神様というのは、人の為に存在しその力や知恵で人を助けるのではなく、ただあるがままに存在し、人にもその恵みを分け与え共存していくものなのだと思いました」


 その言葉に、マタは大きく頷いた。


「人もまたあるがままで良いのです。争う必要などないのですよ」


 林蔵は、マタと接しアイヌの精神を学んだことで、常に感じていた枠や壁の正体に気づいた。人を縛る神仏や誉れとの向き合い方を変えれば、心健やかに、日々を過ごせることに気がついたのである。


 彼は森を眺めた。


「父上、確かに士というのは尊いものです。しかし勝てば官軍などと謳い賞賛を浴びても、緑陰濃い木々や動物を殺生し得たその誉れはあまりに惨い。それは人のあるべき姿ではない。某は……士ではなく人として、カムイと共存していきます」


 松前郡の山奥、二人の士族がそっと姿を消した。

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