第27話 南西の谷へ
「それじゃ行ってくる」
「いってらっしゃいませ、お気をつけて、ご無事のお帰りをお待ちしております」
「はぁ、背中に覚える人妻の温もり、堪らないものがあるな」
「ルカートは今朝も元気ねえ」
「ルカさん、お戻りになられた際、もしセイランさんとおかしなことになっていらしたら、この家の風紀のため股間を潰させていただきますので」
「うッ、ミアちゃん、女の子がそんなこと言っちゃダメだよ」
裏庭の木戸を出て、南西へ。
この店は商業連合の中央から見て南東の外れにある。
首都は海に近い大都市ドニッシス。
海外と交易を行っている巨大な港までの直通便が唯一発着する、政治と経済の中心地だ。
だがこの店のある街は、ドニッシスより、中央のエルグラートの方が近い。
南のベティアスから商業連合を訪れる人々も、ヴァーリーバレー方面の砂漠を避け、こちら側から入国するのが通例だ。
何故なら砂漠には魔獣が大量に住み着いている。
だから商業連合の者も、滅多なことでは砂漠に近寄らない。
幸いにしてというか、故事に倣えば、かつて大きな災いが起きた際に出来たというヴァーリーバレーのおかげで、魔獣たちも砂漠を越えて商業連合へ侵入してくることは稀だ。
しかし谷にデグラブが大量発生すれば、デグラブのみならず、そのデグラブ目当てに他の魔獣も谷に集まってくる。
今回に限っては二次災害を防ぐという意味でも重要な仕事だが、しかし数が減らないという理由が現状では不明だ。
殺し合うより多く生まれているのか、それとも、そもそも縄張り争いが発生していないのか。
「エリアスは前にもデグラブ駆除を請け負ったことがあるの?」
ルカートが手綱を握るピオスの馬上から訊いてくるセイランに「仕事としてではないが、ある」と返す。
「随分前だが、一度だけ、集団戦の訓練になると、師匠に放り込まれた」
「まあ」
「あの頃の俺はまだ見習いだったが、それでもどうにかなった、デグラブは単体ではたいした魔物じゃない、大人の腕力があれば訓練を受けていなくても棒で殴って殺せる」
「大きさはどれくらいなの?」
「甲羅が直径一メートルほどだ、硬度はさほどない、身はあっさりしていて美味しい」
「へえ、いいな!」
食い気にはしゃぐルカートに溜息を吐く。
「よくない、そんなのが数百匹も谷中で蠢いているんだ、倒しても倒してもきりがない」
「うッ、そ、そうか」
「おまけに奴ら泡を吐く、この泡が滑って足を取られる、転んだところに無数のデグラブがまとわりついてきて―――」
まあ、それでも俺は片っ端から殴って蹴りつけ、暴れに暴れてどうにか切り抜けたが。
そのあと過労で三日寝込んだ。
だが今はあの頃とは違う、対策もしてきた、抜かりはない。
「うう、あのさ、駆除は夜の方がいいんじゃないか?」
魔獣になって戦うつもりか?
確かにあの姿の方が戦闘力は高そうだが、セイランが「やめたほうがいいわね」とあっさり却下する。
「デグラブも魔物なら夜の方が活動的になるでしょうし、魔獣の姿で戦うのはよくないわ」
「定着が早まるのか」
「そう、とにかく魔獣の姿を肯定的に捉えてはダメ、本質が魔獣に寄ってしまう」
沈黙するルカートに、俺も何も言えない。
とにかくあの姿は異常だと認識するべきか、そうだな、今のこいつとは似ても似つかない。
だがとても優美な魔獣だ。
ルカート自身も複雑だろう、どうにか役に立ちたいと、横顔に後ろめたさが滲んでいる。
ヴァーリーバレーへは片道五日、それなりに長旅だ。
宿は使えない、夜は野宿を余儀なくされる。
それが申し訳ないのだろう、ルカートは進んで俺達を翼の内に迎え入れてくれた。
こちらとしても有難いと思うが、それはそれとして、ルカートの心労が若干気掛かりだ。
以前までと違い、結界を張らずとも魔獣は寄ってこない。
ルカートの寝心地もいい、おかげで野宿でも十分休息をとることが出来る。
だがその全てが皮肉だ、便利だと思う反面忌々しい。
「君、ずっと難しい顔してるよな」
空の水筒や鍋を並べながらルカートがなんてことないように口にする。
その全てをセイランが呼びだした水の精霊が清らかな水で満たす。
「はぁ、本当に便利だ、なあ、過去にここまで遠征が楽だったことってあるか?」
「ない」
「そうだよな、一番苦労する水の確保だって手軽だし、夜も交代で見張りをせずに済む」
「ルカ」
「ん?」
お前はそれでいいのか?
見詰めると、ルカートは赤い目を何度か瞬かせて笑う。
俺の眉間を指でつついて「気にするなよ、大丈夫だ、何とかなる」なんて楽観的な言葉を吐くから、つい溜息が漏れた。
「あっ、なんだよ!」
「当事者が呑気で始末に負えないと思ってな」
「あのなあ、それで僕が暗い顔していいことってあるか?」
「分かっているのかルカート」
「ちゃんと分ってるさ、エリアス」
「君を独りにはしないよ」そう口にするルカートに、一瞬動揺して視線を逸らす。
付き合いの長いこいつの言葉は時々嫌な具合に的を射る。
傍で聞いていたセイランがウフフと笑った。
―――調子のいいことを言って。
俺は水がなみなみと入った水筒を手に取り、喉を潤した。
セイランの話では、精霊の血を引く俺にもこうしたことが出来るそうだ。
だが俺には通常のオーダーしか唱えられないし、そもそも扱いの難しいこの魔法自体を活用できない。
精霊は妖精が呼び掛けるだけで応え、力を貸すそうだ。
試しに呼んでみたが何も現れなかった。勘違いしたピオス達が寄ってきただけだ。
「ずっと人として生活していたから、妖精の本質が埋もれてしまっているみたいね」
「妖精の力を多用するのは危険だと貴方が言った」
「そうよ、性質の境界線がぼやけてしまう、でもそれとこれとは別、ミアちゃんだって、獣人の姿でも人の姿でも同じことを同じ様に出来るでしょ?」
なるほど、感覚的に理解はできる。
けれどこういったものは慣れだ、恐らくそう簡単には使いこなせない。
だがせっかく発覚した潜在能力を放置するのも惜しい。少しずつ、試し続けていくか。
「いいだろう、教えてくれ」
「ええ、任せて」
そうして道中セイランの手ほどきを受けつつ、出発から四日ほどたった辺りでデグラブを見かけるようになった。
ヴァーリーバレーまでまだ距離があるというのに、状況は予想より悪いのかもしれない。
「―――た、谷から溢れてないか?」
五日目、遠目に見えてきたヴァーリーバレーを双眼鏡で確認したルカートが唸る。
俺にも肉眼で見える、谷を埋め尽くし、谷から溢れ、あちこちを縦横無尽に歩き回っている数えきれないカニの群れ。
「数百って数じゃないぞ、あれはもう千匹以上いるんじゃないか?」
「お腹いっぱい食べられそうね」
「そうだなマダム、当分カニ尽くしだ」
取り敢えず食い気はしまっておけ。
俺達は谷を見下ろせる辺りに陣取り、作戦会議を開くことにした。
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