第20話 宵の獣
「どうして来た」
「心配しちゃ悪いか、案の定だったじゃないか、大丈夫か?」
「うん」
「エリー」
「お前の声がして、我に返った」
「そっ、そうか」
「悪かったな」
「ああいや、別にいい、それより血まみれだぞ、口の中とか気持ち悪くないのか?」
改めて口の中の鉄さびた味を吐き出す俺に、ルカートがうえッと呻く。
気遣っておいて失礼な奴だな。
「しかし圧巻だったな、実物を見たことはないが、さっきの君はまさしく猛獣だったよ」
「そうか」
「なんて言うか、こういうのは不謹慎だろうけど、綺麗だった」
「トラになった俺がか?」
「うーん、説明が難しいな、つまりあれだ、野生動物特有のしなやかさというか、強靭さと生命力を感じたんだ」
「ふぅん」
「でも耳と尻尾は人前で出さない方がいい、本当は獣人だ、なんて勘違いされたら、周りからのあたりが更にきつくなりそうだ」
それは確かにそう思う。
コツを掴んで耳や尻尾、爪と牙は簡単に出し入れできるようになった。
獣人は、例えばミアのような亜種であっても、獣の特徴を完全になくすことは出来ない。
その点において俺は明らかに獣人と異なる、だが妖精の血が半分流れているなんて知られたら、別の理由で面倒なことになりそうだ。
「血まみれだし戻ろうエリー、君は相変わらず無茶ばかりだな」
「お前に言われたくない」
「怪我してないか?」
「いや」
「そうだ、セイランも癒しの力を持っているそうだ、彼女の種族は治癒だとか浄化だとか、そういう能力に長けているらしい」
「なら俺達が殺し合ったとしてもどうにかなりそうだな」
「嫌なこと言うなよ」
表情を暗くするルカートに、湧きだす不安を思考から払い除ける。
気負うな、意志の地点で挫けてしまっては成せるものも成らない。
戻った俺達を見て、セイランは「あらまあ」と目を丸くすると、懐から小さな道具を取り出した。
フワリと芳香が漂う。
「来てちょうだい、精霊アクエ」
道具を揺らし、辺りに広がった芳香に惹かれて、精霊の光が現れる。
これはオーダーか。
「この子たちを綺麗にしてあげて」
光が傍に近付いてきて、ふと冷気を感じたと思った直後、頭から水をぶっかけられた。
「うぐッ」
「ぶわッ! なんで僕まで!」
「男前になったわね」
「うう、マダム、あんまりだ」
「今のはオーダーか?」
「少し違うわね、原理としては同じだけど、妖精は任意の精霊を呼べるの」
そういえば先ほど、水の精霊を指定して呼んでいた。
「イグニ・パレクスム」
濡れた前髪をうんざりと押し上げて、ルカートは俺ごと無詠唱のエレメントで水気をすっかり乾かす。
「貴方にも出来るわよ、エリアス」
「エレメントなら唱えられるが」
「それじゃ、貴方達のねぐらへ戻ってからオーダーのやり方を教えましょう」
そうだな、オーダーはヨルから教わっていない。
さっき見た妖精のオーダーは日常的な利便性も期待できそうだ。加えて、攻撃の手段は多い方がいい。
「本当に凄いなエリー、すっかり見違えたじゃないか」
「貴方達の付き合いは長いの?」
「ああ、幼馴染ですよ、マダム」
「そう」
「僕の方が三つ年上です、そうだよなエリー」
「ああ」
子供の頃ならいざ知らず、三歳程度の歳の差なんて今更あってないようなものだが。
まあ、この話題になるとルカートはムキになりがちだから、余計なことは言わずにおこう。
他愛ない会話を続けるルカートとセイランを眺めつつ、俺は暫く体の具合の確認を続けた。
攻撃力に関しては、能力が全体的に向上した今の状態を感覚的に掴めるようになれば、更なる上昇が見込めそうだ。
変化に伴う自我の境界線の揺らぎ、今のところ兆候はないが、時折意識が何かに囚われたようになり、思考が一点に集中しがちだ。
これはよくない、対策を考えなければ。
あの赤い記憶と、俺に『忘れろ』と告げる父さん。
言葉通り俺は何か忘れているのか、だとしたら、それは一体なんだ。
視界が翳ってきたように感じて、見上げた緑の天蓋の、葉の隙間から覗く空はいつの間にか茜色だ。
陽が暮れる。
足音に目を向けると、ルカートは俺とセイランから離れた木の根元まで行き、膝を抱えて座り込んだ。
赤い瞳がうっすら光を放つ。
「なあ、エリー」
「なんだ」
「もしかしたらこれが最後かもしれないから、君に伝えたいことがある」
「怖気づいたか」
「ははッ、それは流石に仕方ないだろ―――僕は、君とまた会えて嬉しかった」
「ルカ」
「どうせ君のことだから、とっくに気付いているんじゃないか? 僕が君を探すため、ルーミル教の司祭になって、監査官の役目を請け負ったって」
「ああ」
「そうだよな、君は昔から察しが良かった、だから僕はずっと怯えていた」
「何にだ?」
立てた膝の間に顔を伏せて、ルカートは体をギュッと縮める。
―――ざわつく気配にうなじの毛が逆立つような感覚を覚えた。
「僕が、君の父さんが亡くなる原因を作ってしまったから」
そう言った直後にルカートは胸を押さえ呻きだす。
「ぐぅッ、がああッ、ガッ」
うずくまった姿が変形を始めた。
陽が落ちたのか、呪いによる魔獣化、これが。
「あガッ、がぁッ、うぐぅッ、ぐッ、グウぅッ、あぎいイイイッ、ギイイッ!」
「ルカート!」
「え、エリーッ、マダムもッ、に、にげ、ろ、僕から、離れてッ、ぐううううううッ」
バキボキと骨が折れ、砕けて再生し、筋肉が増幅し、ルカートの肉体を構成するすべての要素が歪に変形していく。
酷い光景だ、苦悶の表情を浮かべたその双眸からは赤い涙が流れ、掻きむしった肌が裂けて血が吹き出す。
長く美しい髪は見事なたてがみに、全身に毛が生え、肥大化した四肢からは鋭い爪が飛び出す。
そしてその背に、さながら猛禽類のような見事な翼が開いた。
俺は立ち上がり、妖精の力を意識しつつ身構える。
視界の端で縞模様の長い尻尾がゆらりと揺れた。
セイランは俺とルカートから距離を取り様子を窺っている。
「ぼくの、ことは、もう、いいから」
獣面と化したルカートの口から最後に「ころしてくれ」と人の言葉が漏れて、直後、周囲の木々を揺るがすほどの雄たけびを上げる。
―――巨大な獣だ。
鋭い牙を生やす口、どっしりと地を掴む四肢には刃のような爪、体毛は滑らかで金に輝き、特にたてがみは目を見張るほど美しい。
背には猛禽の翼。
そして、真紅の双眸に殺意の炎が燃え上がる。
長い尾を揺らしながら威嚇して唸り声を上げる魔獣。
いかにも恐ろしいが、しかしなんて美しいんだと、つい思ってしまった。
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