オチのない青春

杉浦ささみ

初夏の海と散文

 松の林を横断しきると、頭上の影が後ろに引いた。そこを日差しが埋め合わせるのは、息つく間もない一瞬だった。ささやかな初夏の静けさが、爪先からなだれ込む。青空の下、ワンピースが儚げに揺れた。

 糸島いとしま隣里となりは海を目にし、砂浜に足を踏み出すと、大きく深呼吸した。ガス抜きのつもりだ。海面に真昼の星のようなきらめきが乱反射している。ゆったりとした入道雲が遠くのほうに帆を上げている。むこう岸には町の景色が銀の帯のように横たわっていた。

 ビーチサンダルが柔らかく砂を踏む。ぽつりぽつり足跡が生まれていく。砂地は海に近づくにしたがって、水気を含みくすんでいく。そして肌がじりじりと焼き付く。

 波打ち際まで歩くとそこには、色んなものが漂着していた。海藻、流木、シーグラス。マニアにとっては宝の山なのかもしれない。

 隣里はその砂地の中に、奇妙なものが突き出しているのを見つけた。親指くらいの大きさで、何故だか彼女の目を惹いた。貝殻ではなさそうだ。引っこ抜いてみた。

 コルク製の人形と推測できた。安らいだ表情を作り、ザビエルのように胸の前で手を重ねている。胴は竹筒のような円柱で、精巧な線がいくつも走っている。はにわみたいなデフォルメ調で、性別は判然としない。どこか胸騒ぎを覚えながらも、隣里はそれを手のうちに握った。目の前には相変わらず海があった。いつも通りの体育座りで海を見る。

 ときどき、船が視界に入る。長いあぶくの尾を引いて、静かな海の均衡をゆらす。それもやがて優しい凪に落ち着く。あぶくもどこかに消えてしまう。

 海の包容力に向き合っていると、ふと手の中のそれが気になってくる。

 地べたに座ってスカートを汚している私なんかが、やすやすと持っててはいけないのでは。大層なものなのかもしれない。もしかしたら宇宙人や妖怪にまつわるものなのでは。薄々と、そんなあてもない考えが隣里に沸き立ってきた。

 それでも海は、そしらぬ顔をしていた。

 海を見るのに飽きてくると、隣里は人形を砂上に横たえ、その景色にさよならをした。松原を通って、路地に貫かれた住宅地を抜ける。途中、自販機でペットボトルのコーラを買った。初夏に抗うべく、思いっきり冷えていた。


 次の日の朝、変わった夢を見て目を覚ました。海のような宇宙のような、そんな夢だった。そのほとんどは朝焼けとともに霧消してしまったけれど、あの人形が関わっていたことだけは何故か確信を持てた。

 掛け布団は寝ている間に取っ払っていた。枕に頭を乗せてぼーっと上を向いている。板張りの天井は異様に暗く、まるで力を失った夜がそこに逃げまとっているかのようだった。秒針の音と朝食を作る音だけがはっきりと聞こえる。カレンダーは少しだけ朝日に白んでいた。狭い室内に、はじまりの空気が神秘的に立ち込めていた。

 隣里はなにか違和感を覚えた。この部屋には1つだけ余分なものがある。そんな気がした。周囲を見回してみる。直感的に勉強机に目をやった。それと同時に眠気は全て消し飛んだ。人形がペンケースと一緒にこちらを向いている。確かに浜辺に置いてきたはずだったのに。とりあえず隣里は学校へ行く準備をしなければならなかった。


 弁当の匂いが混じる賑やかな教室の一角で、隣里は友人の志賀しかの遥香はるかに例の出来事について話すことにした。

「また海にいってたの。ところでさテスト勉強はどうしたの」

 遥香は頬杖をついてニヤリと言い放った。隣里の机に椅子を向けている。遥香は不思議な女の子だった。『オカルト中毒』という本をよくカバンに忍ばせている。そして、隣里と同じでテスト勉強の分量はほどほど未満だけれど、いつも颯爽と高得点を取ってみせる。その秘訣は藪の中だった。


 一通り話し終えて、満を持してAに人形を見せることにした隣里。カバンの中からマジックのように取り出す。

 人形を見た途端、遥香はあっと驚いた。

「その人形ってさ、もしかして」

 彼女は手早くスマホを取り出し、電源ボタンを押した。せわしなく画面上で指を動かす。そして、とあるページを隣里の顔の前に示した。『幸せの幻獣』という文字列が目に入る。「ちょっと前に偶然見つけてね」

 一昔前に作られたような、チープなデザインの個人ブログだ。ナゾの化粧品の広告がでかでかと表示されている。

 スクロールされるのを眺めていた隣里は、ふと面食らった。そこに表示されていた一枚の画像は、手元の人形とぴったり合致したのだ。

「あーそれそれ、私びっくりしたよ」

 画像にぐりぐりと指を押し当てながら遥香は言う。「このブログの人が言うには、望んだ将来を約束してくれる人形なんだってそれ」

「……そうなの?」

「海外の無人島の妖怪が作ったらしいよ、ホネロルスとうのカラカラっていう妖怪がね。なんか変な話だよね。他にも金運のとか、恋愛のとかがあるんだって」

「妖怪? カラカラ?」

 隣里は戸惑いを隠せなかった。 

 いっぽう遥香は、説明しながら一番下までスクロールさせる。

「いかんせん情報が少なくてねー、面白そうな話なのに」

 そのあとに思い出したかのように付け足す遥香。

「その人形の力で、伝奇小説家でも目指してみたら?」

「えー、新聞記者とかでいいよ……」


 隣里は、妖怪というあやふやな謎に包まれたものを理解できるほど聡明ではなかったし、海そのもの以外にはさほど興味はなかった。そんなことより流石に勉強を始めなければと思っていた彼女だけれど、放課後は何故か2人で海に行くことになった。

 人形の手がかりを探すという大義名分があったが、2人は渚をずっと歩き回るだけだった。手持ち無沙汰になったので、隣里はとりあえず穴を掘った。副産物の山ができた以外に成果はなし。

 遥香が魔法陣のようなものを描いた。隣里はその横で魚を3匹描いた。サバとマグロとサンマだったけれど、どれも一筆書きの簡単なものだった。ついでに海藻も描いた。遥香は途中で枝を放棄し、隣里のシンプルな魚の絵をずっと眺めていた。

 水平線にむかって人形を掲げれば不思議なことが起きるかもと遥香は波打ち際に走っていったけれど、波がしきりに足元をぬらすだけだった。浜辺には小さな穴が天の川のように広がっている。色々な貝殻が一等星のように散らばっていた。

 ぶ厚い雲が太陽を覆い隠した。気温が落ち着き、海の表情は少し重くなった。

「なんにも起きなかったね」という遥香は何故か満足げな顔をしていた。両手に貝殻を抱えている。長い足跡の途中いくつも拾い集めていたらしい。

「帰りにメロンパンでも買って帰る?」

 遥香がそう提案した瞬間、「グワッ」という声が聞こえた。アヒルにもヒキガエルにも似た声だった。2人同時に足元に目をやった。土のう袋くらいの大きさの動物が腹ばいになって彼女たちを見ている。よく見ると波間から這ってきた跡が残っていた。隣里が悲鳴をあげる前に、遥香が先んじて「かわいい」と呟いた。

「こわ」と隣里。獰猛寄りのビジュアルだと彼女は感じた。

 黄土色で背びれが張っている。一見アザラシのようだけれど、アザラシとは似て非なる生き物ということは2人とも理解できた。

 濡れたひれ(手かもしれない)を砂地にペチペチさせて、それは「グワッ、グワッ」と唸った。


「あっ!」


 隣里はサンダルに嚙みつかれそうになって、人形を落としてしまった。海獣はじりじりと威嚇してくる。彼女はそっと足元に手を伸ばそうとしたけれど、同時に人形へと飛び込む海獣。プロのやる百人一首みたいな挙動だ。地面が擦れる音がした。

 海獣は口を大きく開き、人形は影に覆われた。バリボリと嚙み砕かれるのを覚悟した2人だっが、人形がロケットのように海の向こうへと飛んでいった。すぱーん。

 隣里と遥香は呆気に取られた。潮騒が沈黙を押し返す。海獣は素早く体を引きずって海の中に消えてしまった。

「なんかごめん、私が落としたから」

「ええ、いやいや急展開すぎたし仕方ないよ。それにさ私も怯んで動けなかったし、ごめんね」

「いいよ全然、ところでさ怪我はない?」

「うん大丈夫」にっこりと笑顔を浮かべた。「人形も無くしちゃったけど、また探せばいいよね」

「えぇ、本気……?」と隣里。

「マジ、3割くらい」と遥香。「にしてもさ、2人で目撃できてよかったよ。誰かにこの話するとき、1人だと全然信じてもらえなさそうだし」

「そんときは私も証人になるの?」

「もちろん」

「へー……」

 隣里が無気力そうに声を逃がすと、遥香はとんがった貝殻を親指にはめてガッツポーズをした。

「ミステリーわず!」


 それからは何の変哲もない日々が続いた。中間テストが終わり、答案も手元に返ってきた。遥香はもちろん好成績を収めたし、数学と科学と生物に至っては満点。教室の一番目立つところで先生からスタンディングオベーションを浴びていた。

 一方隣里はまずまずの成績だった。褒められも𠮟られもしなかった。国語に関しては、現代文が突出してよかったけれど古文漢文が悪くておおよそプラマイゼロだった。英語は赤点ギリギリだったので、親に会うまでずっと冷や汗をかいていたが、結局怒られることはなかった。

 隣里は例の人形にまつわる情報を調べた。あのサイトはオカルトのように忽然と消えることもなく、ずっと『ホネロルス島』の検索結果のトップに居座っていた。相変わらずの奇抜な配色。そしてソースは不明。

 不思議なことに『ホネロルス島』の検索結果はその一件だけだった。隣里は不可解さに頭を抱えたけれど、これ以上詮索しようがなかったので匙を投げた。遥香はそのことに関して「なるほどー」と上の空な口を聞いた。遥香もそのことを知っていたのかな、と隣里は思った。


 それからしばらく経ったある日───篠突く雨の降る蒸し暑い日のことだった。カタツムリの季節だ。いやな湿気が教室に立てこもり、隣里は相変わらずぼーっとしていた。いつも以上に室内はがやがやしていて、みんなどこへ行くともなくうろうろしていた。彼女はもうあの時のことなんかほとんど、どうでもよくなっていた。遥香だってそうだろう、と隣里は雨のしたたる窓を見つめる。

 それよりも、2人は進路希望を書かなければいけなかった。隣里は湿った紙に苦闘して、綺麗な文字が書けずに不満そうな顔をした。名前を書いたはいいものの、進路は決まっていなかったのでペン回しをした。

 遥香はすごく悩んでいた。そして隣里と同じようにペンを回していて、「決まった? 私は見ての通りだけど」と尋ねた。

 ペン回しは少しぎこちなかった。そしてすぐ落とした。

「決まってない、難しいよね」と隣里。

「だよねー、アドリブで急に決めろとなると、アホみたいなことしか思いつかないや、うーん」

 遥香はしばらく腕を組んでうなっていたけれど、いきなりシャープペンシルを手にした。

「よし、決めた。お先に失礼」

 慣れた手つきで文字を書いていく。テストのときもこんな調子なのかな、と隣里。しばらくなにも喋らずにペンを進めていた遥香は、やがてその紙を高く掲げた。それをひらひらはためかせながら、どや顔で隣里にお披露目しようとしたけれど、ぴたりと動きがとまった。

 隣里はぽかんと口を開けた。

 すると遥香は「ごめん、うそ!」と顔を赤らめ、用紙に消しゴムをこすりつけていった。夢は白紙に戻った。

「……見てないよね」

「うん、見てない」と呟く。「放課後はハンバーガーでも買って食べよう」と申し訳程度に付け足した。


『第一志望:探検家 志望理由:世界の伏線を回収したいから』


 隣里は、遥香の手の隙間から見えたその文字列についていろいろ考えを巡らせていた。「見てないよね」と弱々しい声が耳に入る。そのとき隣里は自分の席から気配を感じた。振り返るとそこには───


 見覚えがあるものと目が合った。しかし目下には、なんともいえない体勢で机に突っ伏している遥香がいるので、隣里はそちらをなんとかしなければいけないと思った。

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