第13話 再度

 ある春の、日が落ちた頃にそれは起きた。いたって平穏だった日々が壊れたのも、思えばそれがきっかけだったのだろう。

 夕飯の支度をする家が多い時間帯だ。開いた窓からは美味しそうな匂いがしていた。げ油の匂いがすると思えば、次はカレーの香り、と幸せな空気をただよわせていた。俺はよその家の気配を感じるこの時間がそれなりに好きだったのだけれど、母はいつもこの時間になると憂鬱ゆううつそうにリビングのテーブルで、じっとしていた。

 その日も、俺が産まれてすぐに事故で亡くなった父の遺影いえいを前に、母はリビングで頭を悩ませていた。当時まだ四、五歳だった俺は母の背後でじっと背中を見つめていたが、構ってくれないのだと分かるとすぐ手ごろなおもちゃで遊び始めた。買ってもらった車のおもちゃの車輪が、たたみの上でガタガタと鳴る。楽しくて、一人で喋る。だが、次第にそれにもきてきた頃。車の車輪がうまく動かなくなって、母にそのことをうったえかける。


「おかーさん、ゆいのくるま」

「唯、静かにして」


 具合が悪かったのか、俺の声が耳についたのだろう。少し苛立いらだった声で母が言う。だけど子供の俺にとっては、目の前にある楽しみが無くなることの方が嫌で、母に必死に話しかけた。けれど母は俺の声に振り向くことはなく、辛そうに溜息ためいきくばかり。


「ねー、ねーねー、ゆいのくるまが!」


 聞いてくれない母にれて、俺は畳の上で地団駄じだんだむ。


「っ……! 静かにしなさい!」


 母が怒って、おもちゃを取り上げた。俺は一瞬呆気あっけにとられ、次第に悲しみでじわりとなみだにじんでくる。そして、畳の上に寝転ぶと、大声で泣きだしてしまった。それを見下ろす母は、もうどうしたらいいか分からないと言った様子で頭を横に振る。俺は余計に泣くばかりで、その感情の高ぶりが何かを呼び起こした。

 俺の声に合わせるように、床がぐらついて揺れる。母が少しバランスを崩して、その場に座り込んだ。その時、何かに気が付いたようで、目を丸くさせて俺の傍に這ってくる。


「どうして!? 唯、お願い、お願いっ……泣かないで……!」


 ぐらつきがひどくなっていくことに、とてもあせっている。俺を抱き上げる母の手は震えていた。その顔は、あまりにも悲痛で泣きそうだ。けれど、俺は泣き止まない。幼少期特有の駄々だだに、ついに母が手を上げた。パシンッ、と音が鳴る。その瞬間に、揺れは収まった。別の刺激で止まった、という具合に。


「あ……?」


 けれど、俺も母も驚くしか無かった。何をされたのか、何をしたのか、お互いに把握するまでそう時間はかからなかった。


「ごめ、ごめんなさい……唯、でも、仕方ないのよ」


 抱きしめたまま、母は言い聞かせるように何度も何度も謝って、遂にその瞳から涙がこぼれた。泣き出した母に戸惑う俺は、言葉の意味が分からずにただ呆然ぼうぜんとしているだけ。


「あなたにあの力は使ってほしくないの」 


 それ以来、母は俺を外に出すことは無くなったし、俺をかくすかのように生活を始めた。この時から、母も俺もおかしくなっていたんだと思う。いびつな日々を、当たり前の日常にしてしまった原因は俺だ。




 思い出したことで、俺は目の前にいる母が何をしようとしてたのか理解出来た。俺が無意識とはいえ、発動させてしまった力を制御せいぎょしようとしていたのだ。

 発動条件が何か、詳しくは分からない。だけど、俺を思うが故に母は呪具じゅぐにも手を出した。この力さえなければ、こんなことにはならなかったのに。


「私は、調べたのよ。研究したの。こうすれば、唯の力もおさえられる。唯は、唯だけは普通の子として生きていける!」

「なにを……」

「あの人のようにならないで。私の前からいなくならないで、唯……。それだけが、私の――」


 母が手を伸ばす。俺を抱きしめようと伸びてくる手。


「唯!」


 怜央さんの声が、少しだけ遠い。そして、ガタガタ、と地が鳴り出す。あの日の再演さいえんとでも言わんばかりに、俺たちは全員、その場に座り込む。母は泣きそうになりながら、怜央さんは江奈をかばうように抱き締め、俺はペタンとその場に尻もちをついて。


「な、にっ……? また!? またなの!?」


 おびえた母の顔に、見覚えがあった。鮮明せんめいに思い出せる記憶と、あの時抱いた感情がよみがえる。


「お願い止めて! 唯……!」


 追いつめていると分かっていても、止められない地響じひびきが余計に混乱をさせているらしい。でも、今回ばかりは俺の癇癪かんしゃくで起きているわけではない。感情がたかぶっているわけでもない。俺は、今起きている全てをどこか遠い出来事のように感じていた。

 そんな中で、たった一つ。母の姿を見て、思う。

 泣かないでよ。怖い。だってそれは、俺を見ているようだから。


「やっぱり、ダメだよ」


 ぐらぐらと揺れ続けるけれど多分これは錯覚さっかくの一つだろう。こんなに大きな揺れが起これば、今頃大騒ぎになっている。携帯の緊急速報だって鳴らない。地震ではなく、俺のエレメントの能力だ。火でも、水でも、木でも、金でもない。俺自身にも制御できない、エレメント。

 それが母に、このような運命を歩ませたなら。


「そんなにおびえさせるなら、俺は帰れない。帰ることは出来ないよ」


 ここで別離べつりを迎えるのが、正しいことだ。次第に、止んでいく揺れに反して、母が顔をおおって泣いている。俺はそれを、ただ目に焼き付ける。きっと、これが母を見る最後になるだろうと思いながら。


「……唯、お前――」


 次に目が覚めた時は厄介やっかいなことになっているんだろうな、と確信を抱きながら怜央さんの声を最後に、ふっ、と意識を手放す。

 意識を手放す瞬間、多くのことに終止符が打たれた、春の終わりを感じた。

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