第5話 唯と怜央

 じわじわと、倦怠感けんたいかんが六歳の体をむしばんでいた。お母さん、と母を呼ぶ声も、かすれ気味で気力も少しずつけずられていた。

 俺の声に何の反応もないことが、俺は一人なんだ、とより実感させる。

 食べ物はあった。水もあった。けれど、手を出せなかった。勝手なことをして、怒られることが怖かった。物心ものごころつく前に父が亡くなって以来、母はよく泣いて俺をしかった。


「なんで言うことを聞かないの。お母さんは、唯のために頑張ってるのに」


 その言葉を何度も何度もぶつけられて、俺は自分で動くことが苦手になっていた。いいよ、と言われなければ、食事も取れないほど母の言いなりになっていた。

 外に行きたい、と言えば、母はむずかしい顔をして一言で言い切った。


「外に出ないで」


 それはもう呪縛じゅばくなのだろうけれど、六歳の俺を殺すには十分じゅうぶんだった。ああ、俺はどこにも行けないんだな。と思い、毎日眺める外で遊んでいる子供たちがうらやましかった。

 そんな状況じょうきょうの中で、ある日、母が唐突とうとつに帰ってこなくなった。どうしてなのかは分からない。

 どうしよう、と不安になったけれど、ただ寝転んでいることしかできない。もう身動きが取れずに意識も朦朧もうろうとしかけた時、開けていた窓の外から声が聞こえた気がした。

 お母さんの声だ、と思ったけれど、曖昧あいまいな意識の中で聞こえたそれは幻聴げんちょうだったのだろう、と後で思った。だって、あの場に母はいなかったから。俺は、ふらふらと玄関へ向かい、扉をひらいた。外に出れた、という嬉しさよりも、怒られるかもしれないという恐怖きょうふがあったけれど、動かなければ死んでしまうとさとっていたから、俺は初めて母の教えにさからった。

 階段を下りていくと、ちょうど夕暮れ時。ふらふらと歩き続けていれば、車にかれかけた。その車が停まり、中から出てきた大人が俺の方に近寄ってくる。


「ちょっと、君! 危ないだろ!」


 母以外の大人に怒られたのは初めてで、それがまた俺の記憶をよみがえらせる。母が泣いて俺を怒った時のことが鮮明せんめいになって、心はもう限界で、ぼろぼろと涙が出た。大人がぎょっとしていると、その後ろから子供が俺を見ていた。


「どうしたんだ」

「怜央様!」


 その頃から大人びていた怜央さんは、俺を見て何かをさっしたらしい。気が付いたら俺は、「たすけて、」とか細い声でつぶやいていた。怜央さんは少し黙って、俺の手を引く。大人に何か指示らしきものを口にして、俺を無理矢理車に押し込んだ。


「うちに来い」


 ふかふかのシートに座らせられて、俺はそのまま意識を手放した。目が覚めた時には、もう南条家のお屋敷にいて、ベッドの上で寝ている俺に怜央さんはこう言った。


「お前は俺の小間こま使づかいにする」


 それから、俺の生活は一変いっぺんした。色んなことをたくさんの人に教えられ、怜央さんの我儘わがままに付き合った。勉強は苦手だったけれど、面白いとは思う。物覚えは悪かったが、知らないことを知っていく感覚は好きだった。発育不良のせいで小学校にはついに通えなかったけれど、中学校からは行けた。全部、支援しえんしてくれたのは怜央さんの、ひいては南条家の助けがあったからだ。

 母とは、連絡を取れないようになっていた。母がこばんだのか、それとも怜央さんの手配なのかは知らない。けれど、そのおかげか俺は徐々じょじょに自ら行動出来るようになっていったのだ。そして今では、それなりの生活を送れていると思う。

 あれって何年前だっけ。懐かしいようで、割と最近な気もしている。多分、十年くらいか。もう、人生の半分以上を怜央さんのところで過ごしてる。小間使いとして。結構怜央さんは俺の扱いが荒いけれど。

 ちゃんと手を差し伸べてくれる人だから、幸せになってほしいなぁ、と思う。きっと大手グループの御曹司おんぞうしってことで、背負ってるものが普通じゃないんだろうけれど。

 今度は俺が怜央さんの大切なものを守ってやれたらいいな、なんて、怜央さんの力を考えたら、おこがましいことを思っていた。




「唯」

「……え、あ。なに、なんでしょ、怜央さん」


 考え事をしていたら、思わずしどろもどろになってしまった。怜央さんの目が細くなってにらまれる。隣にいる江奈もなんだか心配そうにしている。


「何考え込んでんだ。……飯に行くらしいぞ」


 皆、プールを堪能たんのうしたらしい。小腹こばらが空いてきたということで施設の中にあるレストランに行こうと考えているようだ。


「なら行きますか。江奈、楽しかった?」

「もちろん。でも、唯君は本当にいいの? 見てるだけで」

「全然いいけど。なに心配してんの。俺は好きにやってるからさ、そんな顔しないでよ」


 そう言うと、江奈は少しだけ俺と目を合わせて、分かった、とうなずいてくれた。

 俺にとって江奈は理解者であり、怜央さんの大切な人だ。だから、今のように頷いてくれるだけで俺は少し安心する。怜央さんの傍で笑っている江奈が好きだ。それはきっと、怜央さんも同じはず。

 でも、多分怜央さんにとっての江奈は、ただの理解者でも、ただの恋人でもない。南条家の御曹司おんぞうしで、不自由さを感じているであろう怜央さんが自分で選んだ、初めての特別な人なのだ。

 江奈の存在は、きっと怜央さんの支えになる。

 そんな確信かくしんがあったからこそ、俺は二人にあきれながらも受け入れている。もちろん行きすぎなところはいさめるようにしているけれど、二人のことが好きだから幸せになってほしい。

 けれど、こうも思ってしまう。二人で幸せそうにしているところを見ると、俺の入る余地よちはないんだと思い知らされる。

 ああ、いいなぁ。幸せそうだな。俺はあんな風に幸せにはなれないよ。誰かを幸せにすることもきっと出来ないで、傷つけるくらいならいっそ、そんな存在はいない方がいい。


「でも唯君も、もう少し楽しそうな顔してくれなきゃ」

「ごめんごめん。ほら、飯行くなら着替えてこないと」


 更衣室前で江奈と別れると、怜央さんがこちらをずっと見ていることに、ようやく気が付いた。


「どうしたんですか、怜央さん」

「はぐらかすのが上手いのは、昔からだな」


 目を丸くさせてから、すぐ苦笑に変える。仕方ないでしょ、と告げれば怜央さんは俺の前を歩きだして、先に更衣室に入ってしまった。そうだ、怜央さんはさといんだった。もしかすると、俺が着替えるのを躊躇ためらっていたことにも気が付いていたかもしれない。そして、さりげなく俺を助けたのだろう。

 怜央さんは、そうやってすぐに手を貸す。なんにでも素っ気ないふりをしながら、よく見て、考えて、俺のような弱者じゃくしゃを助けようとしている。きっと俺は、その善意ぜんいに甘えている。

 着替えを終えれば、レストランの前にみんなが集合しているのを見つけた。席について適当に美味しそうなものをそれぞれが頼むのを眺めつつ、メニューに視線を落とす。


「これ美味しそうですね、怜央さん」

「それもいいな。こっちも美味そうだが」


 こうして見ると、二人は能力だとか家柄いえがらだとか、そんなの関係なさそうにも見える。二人の間に障害なんてなにもない、と錯覚さっかくさせるくらいに。

 二人がもしなにごともなく結婚して、幸せになったら。その後、俺はどうなるんだろう。どこに行くんだろう。

 ちっとも想像できなくて、考えるのは一回止めにした。

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