第29話幕間 ギャレル・ダルシュは心配する

 少しだけ、時は戻る。

 レンブラント館でエムリーヌが朝の身支度をしている頃――。




 

 レンブラント伯爵領の領都アピガは、ターレンヌ地方有数の大都市である。大きな街道の分岐点でもあることから、古くから商業都市として大いに発展してきた。


 街の中央には大きな広場がある。取り囲むように建てられた家々は職人や商人の同業組合の集会場であったり、各国を股にかける大手金融機関の支店であったりするのだが、そのどれもが広場に面した壁面には美しい装飾を施していた。

 潤沢な懐具合がそれらを可能にしているのだが、華やかな建物の足下の広場では、彼らの潤いの源とも云える大きな市場が早朝から開かれていたのであった。


 市場には露店台がところ狭しと並んでいる。ここには街道を辿り各地から集まってきた農産物や製品、衣類に食料品といった日用品、貴重な薬、高価な貴重品から家畜まで、ありとあらゆる品が揃っていた。

 物品の売買だけではなく、道具の修理屋もいれば代筆屋といった店もある。さらに多くの人出を見込んでか、飲み物売りや軽食の屋台、一善飯屋も店を出しており、腹を空かせた客たちが匂いに釣られて列に連なっていく。


 客引きの様々なかけ声に負けじと、大声で交渉を進める商人たち。そのすぐ横を荷物を運ぶ人足が威勢のよく通り過ぎ、時折どこからか売られる家畜の悲しげな鳴き声も聞こえたり。そぞろ歩く客層も様々で、肌の色の違いや職業、身分階級の差も関係なく、誰もが思い思いに商品を吟味している。

 市場の騒々しさは毎日のように繰り返される日常風景だが、数日後に控えた領主の結婚祝賀祭に街は早くも浮かれ気分で、集う人たちの顔色も明るい。数日前まで眉をひそめて囁かれていた黒い噂話もすっかり態を潜めて、今や乾杯の音頭が取って代わる。


(移り気なものだ)


 そんな喧噪と人ごみの中を、ギャレル・ダルシュは広間から数メートル離れたところにある、南ターレンヌ地方の領主モリス・クリストフ・ジャン・マリー・レンブラント伯爵の町屋敷を目指し足早に歩いていた。

 




 屋敷に着いて通されたのは客間ではなく、伯爵の執務室だった。

 部屋にはすでに先客がいて、伯爵はその男と熱心に話し込んでいる。昨晩、下町の酒場で伯爵を迎えに来た大男ではなく、赤い外套マントルを着た男だった。


 ダルシュはその赤い外套が、伯爵家所属の騎士隊の制服であることを知っていた。伯爵家の騎士隊は、ダーナー隊長以下主力はほぼ港街ペンデルの守備に当たっていることも知っていたので、すぐさま海賊たちになにか動きがあったのだと悟った。

 でなければこの用心深い伯爵が、昨晩の下町の酒場での密談から時を置かず、自分を呼び出すことなど有り得ないと思ったからだ。


 入室して来たダルシュの顔を見ると、伯爵は少し口の端を持ち上げた。東側の窓から入る朝の光を浴びて、黄金の長い髪が豪奢に光る。

 暗い酒場の灯りの中でも美しく輝いていた金髪は、朝のまぶしい光の中ではより一層華やかで、まさしく百獣の王のたてがみ。宮廷で、人々の羨望の眼差しを集めるには十分過ぎるくらいだろう。

 さらに先の隣国との小競り合いでも功労を建てているから、貴族のみならず領民からの人気もある。


(だいたい高名な軍人貴族様はイカれちまった人格の人が多いし、やっかみ半分のいい加減な噂のひとつふたつはあるもんだ。多少の奇行だって領地が安泰なら領民は黙認する。まあ、この容姿がセットで付いてくるなら、その辺は相殺アリだな)


 現王は小柄で風采の上がらない容貌だったから、小言家のガランダッシュ宰相がこの伯爵ひとを煙たがるのは当然かも知れない。

 屁理屈を付けてでも蹴落としたい連中は、もっといるかも知れない。


「おはよう、ダルシュ卿。昨晩はよく眠れたか?」


 伯爵との会見のあと、彼はアピガの隣の宿場町シュミンナ郊外に滞在中のタビロ辺境騎士団の野営地まで馬を飛ばしていた。騎士団の団長エドメ・キャンデルに、伯爵との会見の内容を報告するためである。

 報告を終え、キャンデル団長と今後の対策を講じ、深夜近くになってようやく任務から解放された――と思ったところへ。見計らったように伯爵からの使いの者がやって来て、彼はまたアピガへととんぼ返りをして来ている。

 呼び出したのは伯爵であるのだから、ダルシュが休息を取る暇もなかったことくらい承知のはずだ。


「ご存知でしょうに。人使いの荒い伯爵様だ」

「そうか。では、目が覚めるようなニュースを教えてあげよう。その前に軽い朝食を用意した方がいいかな」


 伯爵がニンマリと笑った。

 今朝も顔の半分は黒い仮面で隠されていて、伯爵の表情は読めない。上級貴族の男らしく、感情を表には現わさない。だがダルシュに対して悪意を持っていないことだけは、なんとなく肌で感じられた。

 勘ではあるが、この勘のおかげで彼は命拾いをしたことが何度もある。だからギャレル・ダルシュは、自分の勘を信じていた。


「願ってもない。ならば牛のパテに赤ソーセージ。ウサギのシチューに羊の塩漬け肉。ブタの脂肉入りのスープと山ウズラの焼き肉。焼き魚もいいですね。デザートには砂糖煮の果物に肉桂入りの甘い葡萄酒でも――」

「それは次回にしてもらおう。満腹では動けまい。頭の回転も鈍くなる」

「空腹でも動けませんよ。頭も回りゃあしませんって」


 ダルシュが文句を言っている間に、伯爵は使用人にふたり分の朝食を運ぶように命じていた。


「あれ、伯爵様もまだなんですか?」

「ああ、食べ損ねた。これから急ぎ、ペンデルまで行かねばならない」


 結婚式の直前、本来なら婚約者と幸せな時間を過ごしているはずの男が、海賊や人身売買組織の後を追い掛けて東奔西走している姿は、ダルシュとしても大いに同情していた。しかも国政を牛耳る冷血宰相にまで睨まれ、失脚と財産没収まで狙われているとなれば、肩入れもしたくなる。

 さらにこの男と結婚するのが、自分と共に危険を乗り越えてきた同僚の女騎士だとなると、なにがなんでも助太刀せねばならない気持ちが湧いてくるギャレル・ダルシュだった。


「ところで、教えてくださいよ。いいニュースってなんです?」

「海賊船を一隻、拿捕したことは話しただろう。その船の船長が遂に口を割った」

「そりゃあ、すごいニュースだ!」


 ダルシュが身を乗り出したところで、使用人たちが朝食を運んできた。

 パンにチーズ、ハムとソーセージ、豆の煮物とワイン、大貴族の食事としては皿の上は意外なほど質素だった。むしろ肉体労働者である辺境騎士団の朝の食卓の方が豪勢なくらいだ。


「伯爵様は少食で……」

「朝は食欲が無くてな」


 すでにハムを口の中に押し込んでいたダルシュは、チーズを一口食べただけで皿を押し戻しかねない様子の伯爵に、顔をしかめた。


「あー、知ってます? あなたの妻になる女は、朝から豪快に食べますよ」

「知っている」


「お節介ついでにお教えしますが、エム……失礼、奥方様は酒もイケるクチですよ」

「それも、知っている。ただ過ぎると少々厄介なことになるのだろう」


「これまた、よくご存じで」

「すでに、痛い目を見たからな……」


 伯爵の最後の一言に、ダルシュのスプーンは豆をすくい損ねた。相手の顔も知らない政略結婚。特に花嫁の方は実家の借金のカタに嫁ぐようなもので、さらに夫となる男の不正を探るスパイ活動を引き受けるくらいだから、当然仲は冷えたものだとダルシュは思い込んでいた。

 ところが厄介な花嫁も、この感情の読めない花婿も、お互いに相手に対して好意以上の感情ものを持っているらしいのである。なのに取巻く状況がふたりの仲を引き裂いている。

「人間は幸せになるために生きている」が信条のダルシュとしては、これは一肌脱がねばならないと、真剣に更なるお節介を思案し始めた時――。



「卿が羨ましい。私は彼女のことを『エム』と愛称で呼んだことが無い。そう呼んでくれと言われたのだが、その前に離ればなれになってしまったな」


 仮面の奥の青い瞳が、僅かに揺れていた。

 ダルシュは大急ぎで口の中の煮豆を呑み込んで意見してやろうとしたのだが、その前に伯爵が話題を変えてしまった。

 

「海賊船の行方がわかった。奴らはさらった子供や若い女たちを、海峡を渡りアルイーン大陸のイゾルタン帝国へと連れて行く。金髪で肌の白い子供や女は奴隷として高く売れる――とほざいたそうだ」


 伯爵の瞳にはもう憂いは無い。その代わり、ライオンのような獰猛な光が宿っていた。


「そして、もうひとつ。人身売買組織と手を組み、私の名誉を傷つけてくれた張本人が、もうすぐやってくるぞ」


 黄金の髪の輝きが、軍神のような横顔を鮮やかに彩っていたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

(貧乏)男爵令嬢エムリーヌ・ホルベインの結婚~ワケアリ伯爵様と結婚することになったのですが私もワケアリなので溺愛はいりません~ 澳 加純 @Leslie24M

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ