第17話シードルの罪はグラスの底に
レンブラント館での晩餐は、やはりひとりでテーブルに着くことに。
周りにはリヨンやマルゴたちも控えておりますが、ひとりで取る食事は慣れません。こんなことなら森の館にいた方が、かわいいドニたちと楽しく食事が取れたはずと恨みがましい視線を家令のリヨンに送ったのですが、あっさりスルーされました。
パンとチーズ、ハムにソーセージ。デザートには無花果。昼餐はフルコースでがっつり食べますが、午餐は軽めのメニューとなります。ワインとシードルもいただきます。
「そうだわ。確かめておきたいことがあったんだけど。よろしいかしら」
「どうぞ」
リヨンが口角を上げました。面白いもので三日も共におりますと、長い前髪が顔の半分も隠していても、なんとなく表情や感情が読めてくるのでございます。現在、リヨンの機嫌は悪くない様子ですから、大抵の質問には答えてくれるはず。
「伯爵様は、現在はどちらにおいでなの?」
「はい。――領都のアピガにおいでです」
なにか引っかかるものを感じました。リヨンの答えに、少し間があったような。
「お式まで、この館へお戻りになることはないのでしょうか?
「嬉しいことを仰ってくださいますね。そのお言葉、伯爵様へお伝えしておきましょう」
リヨンの声が少し弾みました。彼は伯爵様の家令ですから、私が夫となる伯爵様に興味を持ち会いたいなどと言えば、やはり嬉しいものなのでしょうか。シードルをもう一杯いかがかと進められてしまいました。
彼の反応とは裏腹に、私の胸の内では微妙にフクザツな感情がなにか囁いております。が、レンブラント家特製のシードルは大層美味しゅうございます。いただきましょう。
そのグラスを傾けながら。
「ねえ、リヨン。私の貴婦人教育の時間割。朝から晩まで不自然なくらいびっしり詰まっておりますけど、あれって、私が暇をもてあまさないように、わざとそうしていませんか?」
ニヤリと、彼は意地悪な笑みを浮かべ――ました(予測)。やっぱり、前髪は邪魔ですわ。
「マルゴや侍女たちが
シードルのふわりとした林檎の香りとのどごしの良さに、私は少し酔ったようです。リヨンを問い詰めてみたくなりました。
胸に溜まった感情が、彼を困らせてやりたいと騒いでいます。
「それは伯爵様のお考えですか、それともあなた? 館の者は下女に至るまで、皆知っていることなのに。私は奥方なのに蚊帳の外に置かれたのですね」
「お叱りは私が受けます。いずれはお話しせねばならないことだと考えておりました。でもそれはもう少し先、この館の奥方として落ち着かれてからの方がよろしいかと思ったのです」
ほら、結局私だけ仲間はずれ。大人しくしていたらドニたちには会えなかったばかりか、伯爵様のお考えもご苦労も知らずに日々を過ごすことになっていたのですね。
「それはいつの予定だったのです? それまで私はなにも考えずに、のんきに笑っていろと云うことですの」
口を付けようとしたシードルのグラスを、横から伸びてきたリヨンの手が奪い取りました。
「奥方様には奥方様のお役目がございます。エムリーヌ様、度が過ぎたようですね」
その一言が、私の癇に障りました。
わかっています、彼はシードルのことを言ったのです。シードルを飲み過ぎたのだと、注意したのでしょう。
でもこのときの私には、
リヨンはなにもかも知っていて、高見から私の行動を嗤っているように思えたのです。
彼の薄い唇が三日月のように細く鋭利な形を作ると、私の心は落ち着かない。そわそわと浮き腰な私を、前髪の後ろの瞳はどんな色で観ているのでしょう。
いつもなら、感情を抑えられるはずでしたのに。貴婦人らしく、笑ってあしらうことも出来たはずでしたのに。
私は、酔っていたのです。
それにシードルを進めたのは、あなたです。
いきなり椅子から立ち上がると、私の右側に立っていたリヨンに詰め寄りました。さらに一歩。喉に残るシードルの甘い香りが、私の出来心を後押ししました。
ドレスの裾を捌き、大胆にも息がかかるくらいの距離にまで急接近いたします。
驚く彼が足を後ろへ引く前に、私の右手が彼の前髪を、顔にかかる長い前髪を掴み、上へと勢いよく押し上げてやったのです。
「エムリーヌ……さ……ま――」
見えていたリヨンの唇はとても形が良いのですから、きっと隠された部分の造形も美しいのだろうと想像はしておりました。
ええ、私の予想は外れてはいませんでしたとも!
テーブルの上を照らしていた燭台の、揺れる灯に照らし出された彼の素顔。細く高い鼻梁、知性の光を湛えた青い瞳、広くて白い額は芸術家が丹精込めて彫り上げたよう。
妖精を観たことはありませんが、妖精族の王がうつし世に姿を現わしたのならば、こんな
でもその白い額に、くっきりと大きな傷跡が。
刀傷でしょうか。醜い傷跡が額の真ん中に、無残に刻まれておりました。
いけないことをした! 己の侵した罪の意識に震えが走りました。
けれども彼は、それを傷のせいだと誤解したのでしょう。
「申し訳ございません。淑女の方々は、こういった
それで隠していた、というのでしょうか。リヨンの冷えた左手が、前髪を掴んだままの私の右手の指を、一本一本ゆっくりと剥がしていきます。色を失った私は、唯々彼の顔を見つめていることしか出来ません。
最後の指が剥がされ灰茶色の髪が揺れて彼の顔を覆い隠す寸前、ほんの一瞬だけ、リヨンが微笑んだような気が致しました。それがとても悲しげに見え、抱き締めたい衝動に駆られましたが、それより先にリヨンの身体は私から離れていきました。
六月だというのに、スッと、冷たい空気を感じたのです。
無言で立礼をすると、リヨンは部屋を出て行ってしまいました。
ドアの閉まる音を聞いて、ようやく私は硬直から解放されました。控えていたマルゴが私の元に駆けつけてまいります。
「どうしましょう、私、彼を傷つけてしまいました。謝らなければ……」
リヨンを追い掛けようとする私を、マルゴが押しとどめます。
「明日の朝になさいませ。今はリヨンも気持ちの整理が出来ていないのだと思います。そんな時は、なにをしても逆効果にしかなりません。
一晩お休みなり、明日の朝餐の席でさらりと伝えになった方が、彼もエムリーヌ様の謝罪を受け取りやすいのではありませんか」
そうでしょうか。今はマルゴの言葉を信じ、朝を待つしかないのでしょうか。
「大丈夫です。朝になれば、気持ちもまた明るくなりますわ。ですから、泣かないでくださいませ」
自分の目から涙がこぼれているのさえ気付かないほど、私は混乱していたのです。
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