第7話厨房内は昼餐の準備で忙しゅうございましてよ
厨房は旧館の西の端の一階にございました。
男性の料理人が取り仕切っていて、その周りで数名の下女たちが下処理の済んだ材料を運んだり、すでに出来上がった料理を皿や椀に盛ったり運んだりと立ち働いております。美味しい
――ですわよね。本当はわかっておりましたのよ。
ごめんあそばせ。実は、
という心の声はおくびにも出さないようにして、好奇心旺盛のちょっと空気が読めない奥方様(近日中には!)を装う私は、厨房の入り口の柱の陰で待つようにマルゴから言い渡されました。しばらくするとマルゴが扉の影からひょいと顔を出して、厨房内に入っても良いと申しますから、それはもう「希望が叶って嬉しい!」な気分を発散させつつ、小鳥のような足取りで中へと進んだのでございましてよ。
厨房内は意外と狭くって、中央に大きな囲炉裏。大鍋が吊されていて、スープが作られていました。囲炉裏のそばには串に刺さった肉の塊が。あれは鶏ですね。良い香りがここまで届きます。
岩塩とハーブに混じって、ピリッと締まった辛みを感じる香りは胡椒(超貴重な贅沢品です!)ですわね。
自動的にお腹の虫が騒ぎ出しました。ですが淑女たるもの、お腹を鳴らすなんて粗相は出来ません。下腹に力を入れて押さえ込みます。コルセットでウエストも締め上げてありますから、相乗効果を期待いたしましょ。
しかしといいますか、案の定といいますか。私が厨房に足を踏み入れた途端、下女たちはざわつきました。気にしないで、と言っても気にしないわけにはいかないでしょうね。
料理人のコルワートも、奥方様(近日予定!)がこんなところに足を運んだ理由がわからず、どぎまぎしております。料理にいちゃもんを付けられるとでも考えたのでしょうか。顔が険しいっ!
「美味しい食事をありがとう。お礼を言いに来たのよ」
風変わりな奥方様に最初は警戒していた彼らですが、私が料理に詳しい(それは作っていましたものね)ことや下級使用人だからと見下すようなことはない、おまけに威張り散らすことも無いとわかるとホッとしたようです。
いますよね~。自分の出自を鼻に掛けて、目下の者を足蹴にする奴。私、そんな卑劣な人間に見えます?
皆とは仲良くなりたいの。だから、もう一押し!
「朝食の肉詰めパイ、あれは美味でした。ナツメグとグローブの香りがよろしくって。まあ、昼餐はラグー(煮込み料理)が出るの?」
「奥方様。そっちの鍋は夕餐のものですよ。それまで楽しみにしといてください」
正確にはまだ奥方様ではないのですが、その方が話のとおりが早いので目をつぶりましょう。コルワートの表情が少し軟化してきました。料理人も、やはり自分の仕事を高評価されると嬉しいようです。
「昼はパテなんかいかがです? ウサギのグレービーソース添えも用意していますぜ」
「まあ、嬉しい!」
私、基本好き嫌いはありませんから。なんでも美味しくいただきます。マルゴが運んできた温かい蜂蜜酒(すっかり忘れていましたが、これをいただきに来たのでした)を片手に、食材やら調理方法についてだのと料理談義が始まってしまいました。
凄いのはコルワートったら、私と会話をしながらでも手元は動かし続け、下女たちには的確に指示を出し続けていることです。さすがプロ! と舌を巻かずにはいられませんね。
厨房の隣には食料庫があるのですが、中には肉や魚、雑穀類、貴重な香辛料やハーブに至るまで、多量の食材が確保されているのも見えました。肉や魚は、保存が利くように塩漬けや燻製されています。タマネギやニンジン、ネギといった野菜類は、勝手口の脇に家庭菜園があり、そこから収穫するそうです。
「まあ、足りなくなったら外から仕入れることもありますがね」
「
「伯爵様のご領地には、大きな市場の立つ賑やかな領都のアピガもありゃあ、交易港のペンデルもあるんで。珍しい食材とか、どうしても足りなくなっちまったもンが欲しい時にゃ、そのあたりの商人に声を掛けるんですよ」
なるほど。それにしてもあの備蓄の量は、少々の籠城があってもへこたれないくらい潤沢だと思われます。つまり、かなり溜め込んでいる。
備えはれば憂い無しとは申しますけど、現在は政治情勢も安定していて、緊急時(戦争のことね)の備えにそこまで神経質にならなくても良いと思いますけど。
戦争はなくても、天候不順はいつ起こるかわからないから、そちらの方かしら?
サイコパスにして、神経質? レンブラント伯爵様のひととなりがわかりませ~ん。
「そうですか。でもコルワート。これなら突然の客人があっても、十分なおもてなしが出来ますね」
「それが、すぐになくなっちまうんで」
はい? 今、耳を疑うようなことを聞いた気がいたしますが。
なくなる、この量が。どこにそんな大飯食らいがいるんですか。
「あ、あ、ああ!
ほら、伯爵様と奥方様のご結婚の儀のあと、祝賀会があるじゃござんせんか。大勢のお客人をお招きして、それは盛大に、豪華に催されるんだって、俺たち下々の者もそりゃあ楽しみにしているんですぜ。それにお出しするご馳走の準備で……」
あ、そうか~。結婚の……祝賀会……。話はそこへ戻るのかぁ……って。
こら、エムリーヌ。笑顔、笑顔。下女たちが、それとなく私の顔色をうかがっていますから、感情を
「あの、俺みたいなもンがこんなこというのも、どうかと思いますがね。
奥方様、どうか伯爵様のことは――」
コルワートがなにか言いかけたとき、勝手口にひとりの女がやって参りました。大声で、騒々しく来訪を告げるので、彼の言わんとしたことは最後まで聞くことは出来ませんでした。もう、タイミングの悪いこと!
下女のひとり、ネルという者が慌てて女の方へ向かい、用件を聞いております。
「コルワートさん。この女、マスの塩漬けを買ってくれないかって言うんだけど」
「なんだ。見かけねぇ顔だなぁ」
コルワートが不審そうに女の顔をじろじろ眺めています。
女の日焼けした顔は逞しく健康そうで、質素な長袖のワンピースの上にオーバースカートを着てエプロンを締めた姿は、どこかの商家のおかみさんといった風情。ですが、灰色の瞳は時折抜け目なく厨房内を探っています。
「ここのお屋敷、食材だったら、いくらでも買い取ってくれるって聞いたんだけどさぁ」
「おまえ、どっから来た。紹介もない飛び込みじゃ、買わねぇぞ」
「領都アピガのク・レタ商会で教えてもらったんだよ」
コルアートは身体を揺らしながら女に近づき、彼女が篭から取り出したマスの塩漬けを吟味し始めました。マスの個体の大きさに始まって、腹の裂き方や水分の抜き方など処理の仕方など、かなり厳しく検分しているようです。
ですから私も、興味が沸いたような顔をして、厨房内を突っ切りふたりに近づきます。驚いて止めようとするマルゴの手を擦り抜け、値段交渉に入った彼らのすぐ横へと立ちました。並べられたマスをのぞき込み、
「まあ、美味しそうじゃないの」
「だろう。たくさん買っておくれよ。まけとくからさぁ」
女は顔を上げ、私の顔を見てニヤリと笑いました。負けじと私も微笑み返してやりました。そして持っていたレースのハンカチをさりげなく口元まで持ち上げます。
魚特有の臭いが耐えられなかった訳ではございません。ハンカチで口元を隠したのは、
そして素早く唇を動かし、私は、魚売りの女に伝言を言付けたのでした。
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