第8話幕間  真夜中の会話

 ノックすると、一呼吸置いて返事が来た。

 重い木製の扉を開け、小間使いは身体を滑り込ませる。室内は一台の燭台の灯りのみで、今夜は月明かりも弱かったから、かろうじて人影がわかるくらいだ。


 その人影が口を開いた。


「ご苦労、マルゴ。奥方様の様子はどうだった?」


 部屋の奥に置かれた執務机の前には、ひとりの若い男性が立っていた。


 流行りの肩まで拡がる垂れ下がった襟、袖ない上着、爪先の尖った膝丈のブーツといった洒落者のファッション。少し前までもてはやされていた毛皮や金糸銀糸の刺繍などに彩られた重厚な衣裳とは異なり、柔軟で活動的なこのスタイルは、長身でスラリと均整の取れた身体つきの青年によく似合っていた。


 顔の輪郭を緩やかに波を打ち縁取る豪奢な金色の髪は、そのまま肩に掛る長さで、獅子のたてがみにも見える。広い額、高い鼻梁、形の良い引き締まった唇の描くラインは、芸術家が情熱の全てを込めて刻んだ彫像にたとえてもいいだろう。

 しかし彼の顔半分は仮面で覆われ、せっかくの美貌も謎と共にあった。


「はい、伯爵様」


 マルゴが頭を下げた。


「午前は礼儀作法のレッスンに励まれ、午後は領地管理の講義をお受けになりました。その合間に屋敷内を見て回り、厨房に立ち寄られました。料理人のコルワートや下女たちとも、気さくにお話をなされておりましたわ。現在はぐっすりと眠っていらっしゃいます」

「他には、変わったことは?」


 奥方付きの小間使いは小首をかしげる。


「そうですね。エムリーヌ様はマスの塩漬けがお好きのようですわ」


 仮面の下で、レンブラント伯爵の海のような青い瞳が愉快そうに輝いた。


「そう。では明日の昼餐にはマス料理を出すよう、コルワートに伝えておくれ」

「かしこまりました。他には?」


「引き続き、彼女のことをお願いするよ」


 心得ました、とマルゴは答え、静かに退出していった。



 ひとりきりになると、モリス・クリストフ・ジャン・マリー・レンブラントは窓際に寄り、夜空を見上げた。隠れていた月が、雲間から少しだけ顔を覗かせている。


「おやすみ、エムリーヌ。良い夢を」


 伯爵の口元が不敵な笑みを漏らしていた。


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