第5話奥方様生活は華やかだけど多忙で重責ですのね

 リヨンの宣言どおり、朝食後から貴婦人教育が始まりました。

 場所を大広間に変え、まずはマナーのレッスンから。


 後々には王都から高名な礼儀作法の先生を呼んでくださるとのことですが、


「当座は、私が指導することにいたします。付け焼き刃でも、恥を掻かない程度にはなっていただきますよ」


 今、殺気を感じたような気がするのですが、気のせいですわよね?


 ね? リヨン。



 レンブラント館が建てられたのは、今から百年ほど前なのだそうです。

 ですので建造当時からあるおおやけのお部屋のある旧館と、現在の私的な生活区である居館は、繋がってはおりますが趣きは異なります。

 どっしりとした古めかしい雰囲気漂う石造りの旧館と、木材の温もりも随所に取り入れて、居心地の良さを考慮された居館。わたくしの居室や食堂は居館の方にありますが、大広間は旧館の上階にございます。


 大広間の天井は二階屋ほどの高さがあり、窓はその上部にありました。大きな窓ではありませんから、部屋の中は昼でも薄暗い。それでも鎧戸を開け放ち、燭台や天井から吊された照明器具シャンデリアのロウソクに灯りを点せば、そこそこ明るくはなります。


 それよりも驚いたのは、床面積の広さです。少し前の時代まで、大広間は領主の仕事場であり、祝賀会場でもあったのだとか。だから広間の大きさをみれば、館の主の社会的地位が量れると教わったことがあります。

 これだけの広さを有するのですから、レンブラント伯爵家は押しも押されもせぬ大貴族であることは間違いなく、あの方が警戒するのも無理ありません。


 見れば壁も厚く頑丈に作られていて、有事には要塞としての役割も担っていたのかもしれませんわね。

 政治情勢の落ち着いている現在はその必要もありませんから、石造りの壁は見事なタペストリーや絵画が飾られています。中には明らかに外つ国の製品であるものも見受けられます。

 そのどれも意匠を凝らしていて、レンブラント伯爵家の財力がうかがい知れるというもの――。



 でも、今は私、それどころではないのです!


「エムリーヌ様、ドレスの裾捌きにもっと神経をお使いください」

「ひぇ」


「動作は流れるように。ぎこちない仕草は優雅には見えません」

「……う」


「指先は伸ばして。爪先まで、気を抜いてはいけません」

「は……へ」


「常に笑顔! お疲れになったからといって、お顔に筋肉を弛緩させてはいけません!」

「……ぃ……」



 厳しいッ!!

 半時もしない内に、身体のあちらこちらが悲鳴を上げ始めました。こう見えても日頃から(諸々の事情で)身体を動かすことには慣れておりますし、体力だってある方だと自負しておりました。


 ところが貴婦人たるもの、歩くことひとつとってもこれまでとは違う筋肉を緊張させなければならなかったりして、それなりに訓練……じゃない教育は受けてきたのですが、もう首や手足の筋が攣りそうです。

 適当に笑顔を取り繕っているだけじゃ、ダメなんですかぁ~!!


「それでもエムリーヌ様は体幹がよろしいですね。スッと背筋を伸ばされておられるので、それだけでも毅然とお美しく見えますよ」

……ですか」


 ようやくリヨンが褒めてくれたのですが、素直に受け取れません。


「はつらつと、機敏なところもあるようにお見受け致しました」

「まっ。それって、褒めているようには聞こえませんわ」


 内心ぎくりとしましたが、悟られてはいけません。


「傍目にはおっとりとした印象ですが、逞しいところも機敏なところもおありですし、機転も利きそうです」

 

 この若さで家令を務めるだけあって、リヨンは聡いです。前髪に隠された目は、鷹のように鋭い。


「そしてなにより健康です」

「それは自信がありましてよ」


「でしょうね。あの朝食の食べっぷり。感服致しました」


 瞬時に頬が羞恥の熱に染まるのを感じました。リヨンの視線を感じます。隠れていたって、面白がって私の顔を見ている彼の視線は、はっきりと感じてしまうのです。

 ああ、悔しい。


 ほてった顔をこれ以上みられたくなくて、くるりと後ろを向きました。そんな私の反応を、彼はどこか楽しんでいるようにも思えます。

 無礼を咎めようと口を開きかけた途端、追い打ちを掛けるようなリヨンの一言が。


「正直で、お可愛らしい方でもありますね。花嫁がこんな愛らしい方で、伯爵様もお喜びでしょう」


 レンブラント伯爵様のお名前を聞いた途端、熱がさっと引きました。

 そうです、私の夫はモリス・クリストフ・ジャン・マリー・レンブラント伯爵なのです。


「ええ。伯爵様のためにも、立派な貴婦人になって見せますわ!」

「その心意気でございます。エムリーヌ様」


 でも、気付いてしまいました。私は「エムリーヌ様」と呼んでくれる、彼の声が好きなようです。低すぎず高すぎず、ゆっくりと名前を呼んでくれるリヨンの声が、なんとなく心地いいのです。

 どうしてでしょう?


 急に黙り込んだ私を気遣ったのか、昼食まで休憩と云うことになりました。


「庭を散策されませんか? 今は薔薇の花が盛りですよ。ただし、あまり遠くまで足を伸ばされませんように。

 特に、南の森へ行ってはいけません」


 私の部屋の窓から見える丘陵の先に、こんもりとした森が見えていました。あれのことでしょうか。


「まあ、なぜですの」

「狼がおります」


 それは……。


「わかりましたね」


 念を押すようにリヨンは固い声で申します。

 素直に返事はいたしましたが、私の視線は、ここからは見えない南の森とやらを記憶の中で追っていました。常緑高木の一群が茂るあの場所は、伯爵様の猟場でもあるかもしれません。鳥や小動物がたくさん住み着いていそうですが、それは同時に餌が豊富だと云うことですから、狼がいても不思議ではありません。

 ですが、ここからですと徒歩で向かうには少し距離がありますね。


 私が森に興味を示した様子にリヨンは不安を感じたようです。また行くなと念を押して参りました。これ以上彼の心配事を増やすのは得策ではありませんわね。

 リヨンも私の関心を他に移そうと思ったのでしょう。話題を変えてきたのですが、それが――。


「午後は領地の経営と管理のお勉強をいたしましょう。伯爵様がお留守の際は、夫人であるエムリーヌ様が領主としての仕事を代行せねばなりません。当然、このレンブラント館内の運営――家事全般や備品・予算管理、客人への対応もあなた様のお仕事になります。

 我々使用人もお手伝いはいたしますが、日々の運営方針を定めるのは、あくまでも管理者である伯爵様や奥方様のお役目です。使用人たちの上に立つ者として、賢く切り盛りしていくことが出来ねば、目下の者たちから侮られることとなりますよ。

 そのためにも、政治の勉強も必要でしょう。また芸術家たちの援助などなさりたいとお思いでしたら、サロンの運営なども考慮せねばなりませんね」


 私ひとりで、それだけの役割を熟せと? どれだけ労働を負わせる気でしょうか。


「はい。お忙しくなりますよ、エムリーヌ様。

 でも、第一のお仕事は、当家の跡継ぎをもうけることでございましょうね」


 そうだった!

 当然……ですよね。


 結婚誓約書にサインをしたら、私は伯爵様の奥方です。

 妻の務めを果たさねばなりません。


 夫と同衾……、夫と同衾して……そのための行為……行為をしないと……。



 なんてこと! リヨンの心地よいはずの声が、心の臓にグッサリと突き刺さったように思えました。

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