終章 幸せの女王

第49話 当たり前の幸せ


 大会前日がやってきた。公欠扱いの部員たちは、朝から正門のところに集合し、バスに乗り込む。大会が開催される場所までは、バスで数時間もかかるのだ。

「なんだかこんな大会は初めてだが……」

 居心地が悪そうに座る獅子王はため息を吐く。すると、隣に座っていた歌川が笑った。

「楽しくていいじゃない。三年間の中で一番愉快な思い出になりそうだね」

 彼は獅子王のギブスの足を見下ろした。

「バチが当たったね。獅子王」

「お前の言葉は辛辣すぎて、胸が痛い」

「七音はもっと痛かったと思うけど?」

「ぐ……。返す言葉もない」

 獅子王の反応に、歌川は口元を上げて笑みを見せた。

 部長と副部長は必ず一番前の席に座る。顧問の北部は通路を挟んだ隣の席に一人で悠々と座り、楽譜を眺めているばかりだ。高校生にもなると、部員たちを統率するのは部長と副部長の仕事だ。色々と問題を起こす男子高校生たちを束ねるのは一苦労だ。

「それにしても、狭いね。おれ、先生の隣に行こうかな」

 歌川は獅子王を迷惑そうに見つめる。

「すまん。これ以上は小さくなれない」

「七音ならちょうどのサイズなんでしょう? おれが隣じゃ不満そうだね」

「そうかもしれん」

 獅子王は真顔でそう答えると、歌川は呆れたような顔をした。

「今晩。夜這いして七音に風邪ひかせないようにね。喉に悪い」

「そういうお前こそ。北部のところに入り浸りもほどほどにな」

「おれの場合はメンテナンスしてもらっているだけだからね」

「やっていることは同じだろう?」

 大きな声で言い切る獅子王を見て、歌川は「デリカシーがないよね。獅子王は」と呆れた顔をした。

「なんだ。なにがデリカシーだ。本当のことだろう?」

「そんなんじゃ、七音に嫌われるよ」

「嫌われるものか。あいつはおれが好きだ。おれも好きだ。それは確かだ」

 歌川は更にため息を吐く。

「どこからくる自信なの。それ」

「どこからって。すべてだ。七音はからだ全体でおれを『好きだ』と言ってくれるのだ。キスしているときだって……」

 すると、斜め後ろに座っていた比佐が「ストップ、ストップ」と声を上げた。

「なんだ。お前。邪魔するな。おれは七音のいいところを歌川に説明しようとだな」

 歌川は獅子王のギブスがはまっている足をぺしっと叩いた。

「そこがデリカシーがないっていうの。恋人同士の秘密を人に話すバカがいるの?」

「そうっすよ。先輩。二人だけの秘密の時間だから、燃えるんじゃないっすか」

「そう。そうだけど。七音は可愛いんだぞ」

(キスしているときの七音が一番、可愛い。見せびらかしたいくらいにな)

 獅子王は残念がるが、比佐の隣に座っている堀切が、これでもかと顔を真っ赤にしている。

「あの。刺激が強いので、そういうお話は小声でしてもらえませんかね」

「なんだ。お前」

「童貞なんじゃないの」

 歌川がしれっと言い放つ。堀切は余計に耳まで真っ赤にした。

「あーあ。やめてくださいよ。歌川先輩。こいつ初心うぶなんですから」

「くそー。おれだって早く恋人欲しい。いいことしたい!」

 堀切は一人で悶絶している。比佐はそれを見て嬉しそうに笑った。

 あれ以来。獅子王と比佐との間のわだかまりは嘘のように消えた。ずっと魚の小骨が喉に引っかかっていたみたいに。二人の間に流れていた不穏な空気は嘘みたいに晴れたのだ。比佐は比佐だった。子供の頃、一緒に遊んだ時の彼に戻ったみたいだった。

 歌川は後部座席の騒ぎに気がつき、後ろを向いて注意をする。

「こら、そこ。おやつはまだ食べていいなんて言っていないぞ!」

「歌川先輩~。こいつ、おれのグミ、勝手に食べるんですよ!」

 ベースメンバーたちが後ろのほうで揉めている。その隣ではバリトンメンバーたちが、歌い始めている。練習でもしているつもりなのだろうか。しかし、その歌は校歌になり、そのうちに流行歌に変わる。

 歌川は「歌わない。喉を休めておくんだよ」と怒っているが、誰も言うことを聞くわけがない。

 セカンドはスマートフォンの動画を流しながら、ダンスを踊り始め、トップテナーはカードゲームで盛り上がる。

「ダメだね。これじゃ。おとなしくなるわけがない」

 歌川はあきらめて椅子に座った。獅子王は「いいんじゃないか。こういうのも」と笑う。お祭り騒動にもかかわらず、楽譜を眺めていた北部は、いつの間にか夢の中のようだ。バスの中の騒動には、我関せず。歌川は肩を竦めた。

「そういうお前が喉休ませておけ。放っておけ。子供でもあるまいし」

「それもそうだね。長旅になるし。少し休もうか」

 歌川は座席を倒すと、背もたれにからだを預けて目を閉じた。


 昼過ぎ。梅沢高校合唱部は、会場のある現地に入った。これから、運営側が準備してくれている公民館を練習会場として夜まで歌い込みをするのだ。

 明日は昼前の出番。演奏順は、くじ引きによって決まるのだが、ちょうどいい位置につけた。朝一では声が出にくい。昼食後では、腹の調子しだいで、コンディションが左右される。そう考えると、昼前の順番は幸運だった。

(七の女王効果かも知れないな)

 獅子王は心の中でそう思った。バスを降りる頃には、はしゃぎ過ぎた疲れと、昼食後の眠気とに襲われて、元気のない部員たち。案の定というところだ。

 獅子王は松葉杖をつきながら、やっとの思いでバスから降りる。すると、目の前には七音がいた。彼は手を差し出すと、獅子王の肩にぶらさがっている鞄を受け取った。

「持ちます」

「これくらいは……」

「僕にやらせてください」

「わかった。ありがとう」

 七音はニッコリと笑みを見せて、嬉しそうに鞄を抱えた。獅子王は嬉しい。こうして彼がそばにいること。当たり前に思っていた、この時間が幸せだったのだ。

「獅子王」

 そして、仲間たち。自分を呼ぶ声に、顔をあげると、歌川、有馬、保志がいた。そして他の三年生たちも。

(ああ、こいつらと歌うのも、後わずか。おれは仲間たちに恵まれた)

 獅子王は部員たちに向かって言った。

「これが最後じゃない。全国への始まりだ。明日は楽しく歌おう。おれはお前たちと組めて幸せだ」

「湿っぽいぞ。骨折れて、心も折れたか」

 有馬のツッコミに部員たちから笑いが起きた。獅子王は仲間たちを眩しく見つめる。みんないい顔で笑っていた。

(これが、おれの仲間)

 すると、眠そうな顔の北部がやってきた。

「ほらほら、入り口で止まらない。さっさと練習します。色々なことに浸るのは後々。全国が終わってからにしましょう。ね、歌」

 北部に見つめられて、歌川は珍しく、頬を赤くした。

「そうだね。そうだよ! さあ練習しよう」

 部員たちは公民館の職員に挨拶をしながら練習会場へと足を踏み入れた。








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