第48話 愛しい人

 みんなが帰宅をした後、誰もいなくなった音楽室で、七音は獅子王の隣の椅子に座ったままじっとしていた。

「今回はすまなかった。七音」

 獅子王はそう言って頭を下げた。しかし、七音は首を横に振る。

(そんなことはどうでもいいんだ。僕は、先輩がこうして隣にいてくれるだけでいいんだ)

「お前と出会ったばかりの頃。歌川に忠告された。過保護にするなって。七音は強い子だと思うって。それなのに。おれはお前を見誤っていたようだ。おれがなんとかしてあげなくちゃいけないって。ある意味、おれのエゴ。自己満足だったのかも知れない」

「ち、違います。先輩は。僕のこと。心配して、守ってくれていたんでしょう?」

「それはそうだが……。おれはお前の本質を見ようとしていなかったんだと思う。人との付き合いがうまくなくて、どこか危うくて。おれがいないと駄目だって決めつけていた。けれど。違った。お前は強い。おれはお前を失うのが怖くて怖くて仕方がなかった。だから、お前と向き合えなかった。なのに、お前はおれにぶつかってきた。そして逃げずにずっと。卑屈になっているおれを見捨てずにいてくれた」

 獅子王は口元を緩めて笑った。

「救われていたのはおれだ。守られていたのはおれのほうだったんだ——」

「そんなことは……」

「いいや。そうだ。おれはずっとお前に助けられてきた。そしてようやくここまで来た」

 獅子王の大きな手が。七音の頬に触れる。

「おれの女王。お前はおれの女王だ」

「僕は……ただ。先輩が好きで。う、失いたくなくて。必死で」

「嬉しいよ。七音」

 獅子王はそっと七音を引き寄せる。彼にこうして抱きしめてもらうと、なんと心が落ち着くことだろうか。七音の目尻から涙がこぼれた。

 本当は怖かった。獅子王に視線を逸らされたあの時のこと。怖くて堪らなかった。自分の世界がなくなってしまったみたいで怖かったのだ。けれど。諦めたくなかった。それだけは確か。

「うう……」

 恥ずかしくて、バカみたいなのに。嗚咽が洩れた。獅子王はずっと「すまなかった。辛い思いをさせた」と耳元で繰り返していた。

「今度はおれが償う。お前に辛い思いをさせたのだ。おれはお前を決して一人にはしない」

「で、でも。僕は——アメリカに……」

「ずっと考えていた。お前には嫌がられるかも知れないけれど。お前がアメリカに行くなら。おれはアメリカの大学に進学しようかなって」

「え?」

 七音は驚いて目を瞬かせた。獅子王は恥ずかしそうに目元を赤くした。

「おれ。声楽は続けたい。プロは無理でも、北部みたいな教職の道に進んでもいいかなって思っている。けど、学ぶことはどこでもできるだろう。それは海外にでもあるわけで。いや。今日は、必死にアメリカの大学のことを調べていたら、練習に遅刻した」

「な、なにそれ。大会前ですよ? そんなの後ででも」

「いや。これはおれにとっても一大事。お前にくっついていくには準備が必要だ」

 獅子王は偉そうにそう言うが。七音は「ふ」と吹き出した。

「なぜ、笑う」

「だって。ア……アメリカって広いんです。僕、アメリカのどこに行くのか言ってませんけど」

「な!」

 獅子王はこれでもかと顔を真っ赤にした。真っ直ぐで脇目も振らずに歩いていく。それが獅子王輔という男。七音は笑いが止まらなかった。

「笑いすぎだぞ」

「だって。先輩……。可愛いです」

「か、可愛いだと!?」

 獅子王は更に真っ赤になったかと思うと、唇を震わせていた。

(愛おしい。この人が)

 獅子王との逢瀬は、こうして七音に安寧を与えてくれる。すらすらと喋れる自分に気がつき、なんとなく、くすぐったい気持ちになっていた。

「やっぱり。随分と上手く話せるようだな。やっぱり。おれの愛の力だな」

「え?」

 七音は更に笑ってしまった。

(この人は。本当に……いつも僕を幸せな気持ちにしてくれる)

「そ、そうですね。僕。獅子王先輩との時間。好きだから。獅子王先輩は、こうして、僕の話をちゃんと聞いてくれる。僕、先輩となら、いつまでも話していたいなって思います」

「そうか。そうなるように、おれも頑張る。アメリカ。一緒に行こう。だからさ。お前は一足先にあっちに行っても、風邪ひくな」

「風邪ですか」

「後は腹痛だな」

「はい」

 獅子王は両腕を組むと「うむ」と頷いた。

「それから」

「まだあるんですか」

「浮気は厳禁だぞ」

「浮気? そんなもの。しません。だって。僕は獅子王先輩が、好きなんです」

「うう。何度言われても嬉しい言葉だ」

「そうですか?」

「ああ、そうだ。嬉しい。おれもお前が好きだ。一目見た時から。七の女王ではなく。お前が。篠原七音というお前が好きだ」

 二人は視線を交わして笑った。この時が永遠に続けばいいのに——。そんなことは所詮、無理な願いだと知りながらも、七音は今この時の幸せを噛みしめていた。


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