第47話 王の帰還

「ダメだね」

 北部の鋭い声が飛んだ。昨日から何度目だろうか。もう両手では数えきれくらないくらいのダメ出しだった。七音は黙り込んで俯いた。

「この調子だと、明日からの大会で戦えないな。矢吹を呼んできてくれる。歌」

 北部に対し、歌川が非難めいた声を上げた。

「まだ時間はあります。代えるのは得策ではありません」

「だけど、矢吹も十分に歌えるよ。僕は今回、勝ちに行きたいんだ。冒険はしない」

 七音はなにも言い返すことができない。事実だ。昨日から。いや、獅子王とうまくいかなくなってしまってから、声が出なくなった。艶やかに伸びていたその声が。どうしても喉で突っかかる。がさがさと雑音のようなその声では、とても独唱ソロを歌える資格などないことは明白だった。

 心配してくれている優や曉が、喉にいい飴を買ってきてくれたり、はちみつを持ってきてくれたりしているというのに。一向に喉の調子はよくならない。寧ろ悪化しているようにさえ見えた。

 北部はため息を吐いた。

「確かに七音の声で勝負したい。しかし、こんな危うい状況なら、少しレベルを落としてでも安定している矢吹を使いたいと思う僕は悪い人かな?」

 さすがの歌川も黙り込む。彼の決断はよくわかる。曉にしてみても、当日に言い渡されるよりも、出発する前日である今日、ほかの独唱者ソリストとの調整を図ったほうがいいに決まっている。

 県大会の時は、突然の代役だったとは言え、彼は歌川との掛け合いを立派にやってのけたのだ。彼の才能は確かだ。

 歌川は七音を見る。他の三年生たちも七音を見ていた。皆が一様に気の毒そうに自分を見ていた。

(先輩たちのことを考えたら。自分から降りるのが当然のこと。僕一人の我儘のせいで、先輩たちを巻き込むことはできない。けれど——)

 七音は、空席になっているベースの立つ場所を見つめた。

(でも。それでも。僕は。諦めきれない)

 七音は首を横に振った。それから北部をまっすぐに見据える。

「も、もう一度。もう一度。チャンスを、く、ください」

「七音」

 歌川は驚いたように七音を見ていた。有馬も「無理するな。余計に喉を傷めるぞ」と言った。

(みんな。優しすぎるんだ。ここにいる人たちは。こんな僕のために。だからこそ。僕は、恩返しをしなくちゃいけないんだ)

「お願いします」

 頭を下げると、周囲が静まり返った。北部が楽譜をめくる音がした。

「わかったよ。じゃあ、最初に戻って。やってみようか」

 彼は灰色の瞳で七音を見つめていた。

(先生がくれたチャンスだ。僕は、絶対に——)

 心にそう決める。北部がピアノで音を取った。それに合わせて独唱ソロパートが始まる。ベースがいない伴奏は味気ない。バリトンの保志と、セカンドテナーの有馬の和音は不安定に聞こえた。

 そこに美しい旋律メロディの歌川の声が乗った。彼の声色もどことなしか不安の色を帯びる。ここにいるみんなが、獅子王のいないことに不安な気持ちでいることが、如実に声に現れている。

 七音は息を吸った。歌川の旋律メロディを邪魔することなく、そして彩るための飾り。助奏オブリガート。けれど、入りの音に迷いが生じた。

(あれ、どの音から入る? ああ、そうか。いつもここは——獅子王先輩のパートを聞いて歌っていたんだ)

 いなくなって初めて気がつく。七音は獅子王の深く柔らかく、全てを包み込むようなベースの音色に合わせて歌っていたのだ。だから、うまく歌えないのかもしれない。

(先輩がいれば、なんでもできる気がした。世界はまるで自分のために回っているように見えた。それなのに。先輩がいなくなった途端。僕はひとりぼっち。中学校の頃の僕に戻ってしまったみたいだ——)

 歌川が七音を見ていた。

(先輩がいなくても、僕は歌わなくちゃ——)

 けれど。思い切り深く息を吸って出した第一声は、それはそれはひ弱な、頼りのない声だった。

(ああ、だめなの? やっぱり。僕は一人では……)

 獅子王に愛されていない自分は、こんなにも自信を無くしてしまうというのか。声が伸びない。掠れて、大きく揺れて音程が定まらなかった。

 有馬も保志も、声が小さくなった。みんなが歌うことを止めようとしていた。このチャレンジはここで終わりだということ。七音の目の前が真っ暗になった。その時——。

 その場全てを包み込むようなベースの音色が聞こえてきた。音楽室の扉が開いて、獅子王が顔を出したのだ。

(ああ。そうだね。この声だよ。この声が僕は好き。そして獅子王先輩が……好き)

 銀色の松葉杖は彼を痛々しい姿にしている。しかし、その歌声は。ここにいる全ての人を包み込み、安寧をもたらすような清く澄んだ、聖なる歌声だった。

 散り散りになって練習をしていた部員たちも、それを聞きつけて集まってくる。

「獅子王先輩だ!」

「戻ってきてくれたんだ!」

 みんなが嬉し泣きをしている姿が見えた。

 七音は歌う。今まで枯れて萎んでいた歌声は、獅子王の声に誘われて、天に舞い上がる。歌川の旋律メロディを引き立たせるために、声を転がし、そして艶やかに歌いあげた。二人の声は、絡み合い、そして離れて、そして最後に一つになった。獅子王や有馬、保志の声と共に。

(先輩……)

 獅子王に視線を遣ると、彼は七音を見ていた。そしてその優しい瞳を細める。

(僕は。そう。獅子王先輩が好きなんです)

 至福の時。余韻を残して終わった独唱者ソリストたちのパート。部員たちの間から拍手が巻き起こった。

「これならいける!」

「おれたちの成功は間違いないじゃないか」

 互いの肩を叩き合って泣き合っている部員もいる。

 固く抱き合って喜びあっている部員もいる。

 七音は獅子王をじっと見つめていた。

「待たせたな。すまない。七音。獅子王輔。戻った」

「おかえりなさい。僕。待っていました」

「そうか」

 二人は視線を交わし笑みを見せあう。

「まったく。ハラハラさせて。痴話げんかは他所でやってくれ」

 有馬は両腕を組んで本気で怒っているようだった。北部も満足気に、にっこりと笑みを見せる。

「今日はこれで終わりにしましょう。明日は会場に向けて出発です。よく眠ること。獅子王。特にお前は病み上がりだ。七音に無理させないようにね」

 彼は片目を瞑って見せてから、音楽室を出ていった。獅子王は「わかっています」と神妙に頷くと、みんなに向かって頭を下げた。

「情けない部長だ。おれは。みんなを不安にさせて申し訳にない。すまなかった」

 歌川は肩を竦めた。

「いつものことじゃない。大したことないよ。けど、七音にはちゃんと謝って。せっかく来てくれたところ悪いけど。今日はもう練習おしまいだよ。みんな、早く帰って。明日は宿泊になるから。忘れ物ないように。解散だよ」

 彼の声に部員たちはどやどやと解散していった。その間も、七音はずっと獅子王を見ていた。獅子王もまた、七音を見ていた。


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