第46話 見えない壁
結局。獅子王は熱を出した。骨折後の後遺症だろうか。学校に行けるようになったのは、大会二日前。県外での大会は前泊するスケジュールなので、出発は明日だに迫っていた。
正門のところまでは母親に送ってもらった獅子王は、不慣れな松葉杖に苦労しながら、昇降口を目指す。
熱に浮かされた二日間だった。それから、この痛みと。この惨憺たる状況への悲観。そして——。
(七音にあんな顔をさせた——)
処置室に彼が飛び込んできた時、どんなに嬉しい気持ちになったことか。なのに。自分は。どんな言葉を掛けたらいいのかわからずに、つい視線を反らしてしまった。あの時の七音の顔。
(素っ気ない態度を取った。大人げない態度だ。あんな。学校から必死に駆けつけてくれたことは容易に想像できたのに)
獅子王の態度を見て、七音は傷ついた顔をしていた。
(おれは——。七音を幸せにする資格はないのかも知れない。もしかしたら。康郎といたほうが、あいつは幸せになるのかも知れない)
苦労しながら昇降口に向かっていくと、獅子王を待ち受けている男がいた。
——比佐康郎。
梅の木の下で、彼はじっと獅子王を見つめていた。
「なんだ。お前。笑いにきたか。みじめで情けない姿だ」
比佐は黙ってそばに寄ってくると、獅子王の肩にかかっていた鞄を持ち上げた。
「なんだ」
「手伝います」
「お前——……」
彼はただ黙っていた。比佐の真意を探ろうと彼の横顔を見つめていると、比佐は口を開いた。
「痛むんですか」
獅子王は「……それは、な」とぶっきらぼうに答える。
比佐がこうして姿を見せたことに動揺していたのだ。もしかしたら。自分が不在だった二日間で、七音と比佐は気持ちを確かめあったのではないかと思ったのだ。
(悪い知らせ……、かもしれない)
そう思うと、胸の中がざわざわとした。けれど。どこかで諦めている自分もいる。情けない男だ。自分では七音は守れない、と諦めかけている自分だ。
しかし。比佐はふと「今回の件……」と口を開いた。獅子王の歩調に合わせるかのように、比佐はゆっくりと歩いていた。
「こんなことになるなんて……思ってもみなくて。すみませんでした。おれの責任です」
「お前は、関係ない。この怪我はおれ不注意が招いた結果だ」
「いいえ。おれが余計なこと言ったから。——昨日、七音が病院に行きましたか?」
獅子王は「あ、ああ」と言葉を濁す。しかし比佐は「ふふ」と笑った。
「笑っちゃいますね。おれ。生まれて初めて失恋しました。おれが声を掛けた女は100パーセント首を縦に振る。みんな、おれに優しくしてくれるのに……。七音だけは駄目だったみたいだ」
「康郎……」
比佐はため息を吐いて立ち止まった。獅子王も釣られて足を止めた。
「あいつ。すっごく先輩が好きみたい。好きすぎて、堪らないって顔していた。おれは、あんな風に人を好きになったことないかも知れないなって思ったら、なんだかすごく妬けて。けど羨ましくて……。あの黒くてキラキラした目は先輩のことしか見ていない」
比佐の言葉に、獅子王はまるで頭を棒で殴られたくらいの衝撃を受けた。
「七音が……?」
「そうです! おれの入る余地、1ミリもなかったっす。あーあ。おれ、生まれて初めての失恋記念です。先輩。祝ってくれますか?」
比佐は口元をくいっと上げると、笑みを浮かべて獅子王を見た。彼の目にはうっすらと涙が溜まっていた。
「先輩。ちゃんと見てあげないと。七音は先輩のことばっかり。あいつの頭の中、先輩だらけ。だから……。だからさ。言えなかったんだよ。アメリカ行くって。どうでもいいおれには言えることでも、本当に大事なことは、大切な人には言えなかったんだ……」
(それは——。歌川にも言われた。あの時の七音はどんな顔をしていた?)
獅子王は息を飲んで首を横に振った。思い返してみれば、七音の様子は、合宿の頃から変だった。どこかふさぎ込んでいるような。時々、憂いを帯びた顔をしていたのに。自分は気がついてやれなかったのだ。獅子王は自分のことで精一杯だったことを恥じた。
言葉にしない分。七音の気持ちはその雰囲気で伝わってくる。なに一つわかってあげようとしなかったのは自分だ。
(一番、辛くて泣きたいのはあいつだったな……)
仲間と離れる苦しみ。悲しみ。それを口にすることすら憚られるような状況だろうに。何故、自分に言わなかったと責めた。
(身勝手なのはおれだ。七音の気持ちを、一つも知らずに……。あいつは残り少ない時間を大切にしようとしていたのかも知れないのに。おれは、それを無駄にしてきたのだ)
「獅子王先輩は——。おれの知っているしっしーは、ちょっとビビりで、心配性。けど、友達のことはめちゃくちゃ大事にする。絶対に敵わない相手だって、友達が傷つけられたら、果敢に立ち向かっていく人。だから——。おれは貴方が好きだ」
比佐はじっと獅子王を見つめていた。
「母親は仕事で忙しくて、おれのことなんて見向きもしない。いくら勉強したって、褒めてくれる人もいなかった。だけど、このぽっかりと空いた心を埋めてくれるていたの、しっしーだった。小学生の頃、しっしーと遊ぶのが好きで、すっごく楽しかった。それなのに。しっしーは、中学生になって部活忙しくなって。おれと遊ばなくなったでしょう? だから代わりを探して歩いた。けど、なかった。そんなもん、なかったんだ」
獅子王は知らなかった。比佐がそんな思いをしているなんて、一つも思っていなかったのだ。
(おれと康郎の間にあった見えない壁は、それだったのか)
「高校に入って、部活動、どうしようかなって思って迷ってたんです。女の子にモテるスポーツ系にしようかなって。でもさ。久しぶりにしっしーの姿みたら嬉しくなっちゃって。迷ことなく合唱やろうって決めた。きっとまた、貴方がおれに、見たこともない世界見せてくれるって思ったからだ。なのに——。なんでだよ。くそ!」
比佐は獅子王の荷物をぎゅっと握り締めた。
「憧れのしっしーが好きなものは、いいものに決まってる。そう思っちゃうと、どうしても貴方の好きなものが好きになるし、欲しくなった。けど。けどさ。よりにもよって、本気で好きな七音まで好きになっちゃうなんて。おれ最低だ……。しっしーのことも七音のことも。苦しませたいわけじゃなかったのに——」
その時。獅子王は気がついた。比佐もまた。苦しんでいる。彼もまた。獅子王と、七音との間で苦しんでいたのだと知った。
「おれは——」
獅子王は比佐を見返した。
「大馬鹿だ。自分に自信がない。部長だと去勢を張ったところで、結局は歌川や有馬たちに支えてもらわない立っていられない情けない部長だ。しかも、おれを信じてついてきてくれるお前にそんなつらい思いまでさせてしまった。そして七音にも——。梅沢高校合唱部の部長だなんて。笑わせる。こんな情けない男は、歴代の部長としてふさわしくはないだろう。ほらみろ。このざまを。松葉杖ついて大会に出た奴がいるかよ」
比佐は「ふ」と吹き出した。
「笑うな」
「いいんじゃないっすか。そんな部長がいたって。確かに。去年の松浦部長はすげえ強烈キャラでした。あれじゃ、他の部員が立ち入る隙もない。けど。先輩は違う。おれたちの声に耳を傾けてくれるし。仲間とうまくやってる。おれは好きです。そういう部長」
「そうか。——まあ、悪くはない。合唱は個人プレーはご法度だ。そう考えると、おれはなかなかできた部長だったということだな」
「そういうことっす」
比佐は更に「ふふふ」と笑った。
「おれも苦しかったです。先輩とライバルになるなんて。苦しかった。七音のことは結構、本気で好きです。けど、二人の間には入れないってわかっていたし。ちょっと意地悪したかっただけです。おれ、性格悪いから。もう離れたほういいかも知れないです。おれがいつまでもそばにいると。先輩、嫌な思いするかも……」
比佐は獅子王のギブスで固められた足を見下ろした。
「いい。傍にいろ。お前のことも面倒みてやる。おれの足など。一本でも二本でもくれてやるぞ」
「二本はいらないっす」
比佐の笑みに釣られて、獅子王も口元を緩めると、比佐の肩に手を置いた。比佐は恥ずかしそうに笑みを見せる。小学生の頃と何一つ変わらない笑顔だった。
比佐は軽く息を吐くと、「それより。七音です」と言った。
「あいつ。一人で踏ん張っています。変に頑張りすぎていて、へし折れやしないかって心配です。歌も上手くいかないみたい。昨日からべっちに怒られまくりですよ。あいつを救えるのは先輩だけだ。そうでしょう?」
「——そうだな。そうだ。おれだけだ」
「そうこなくっちゃ」
比佐は「さあ、行きましょう」と言って歩き出した。
(そうだ。おれはあいつを全力で守るって約束したんだ。それなのに。おれがあいつを傷つけてどうする。獅子王輔。おれは、お前を全力で——)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます