第45話 深い溝
放課後。音楽室に足を踏み入れると、いつもにもまして雰囲気がおかしなことになっている。ピリピリとしている異様な空気に居心地が悪い。
鞄を置いてから視線を上げた瞬間。腕を取られた。相手は比佐だった。
「先輩……?」
「ちょっと」
彼は顔色が青い。ぽかんとしている優達を置いて、二人は廊下に出た。
(一体、なにがあったの?)
いつもの飄々とした彼ではない。差し迫った真剣な眼差しで七音を見下ろしていた。
「落ち着いて聞け。獅子王先輩が怪我をした」
(——え!?)
心臓が大きく跳ね上がった。
「階段から落ちたそうだ。お前を助けた時は平気だったけど。今回は、かなりの重さの教材を抱えていたから。それに押し潰されて……」
「け、怪我、ですか?」
「すぐに救急搬送されて」
確かに。午前中、学校に救急車が来たと優が騒いでいた。一体誰がなんの理由で運ばれたのかは分からずじまいだったが。それが獅子王だったなんて、思いもよらなかった。
「骨折だって。入院になるのかどうかわからないけど」
七音は比佐の手を抜け出し、ぱっと走り出そうとした。居てもたってもいられなかったのだ。しかし、比佐の手は七音をしっかりと掴まえている。
「もうやめておけ。今回のことを見れば、それが明らかだろう?」
七音は必死に首を振った。しかし比佐は止めない。
「獅子王先輩はお前のことでぼんやりとしていんだ。それで大けがして……。そんなんで、うまく行くわけなんてないんだ。だから、お前はやっぱり——」
(僕のせい!?)
七音は足を止めた。獅子王は自分とのことを気に病んで事故に遭ったというのか。七音はショックでからだが固まってしまった。
(僕のせいだ。獅子王先輩が階段から落ちるのは二度目。一度目も僕のせい。そして、今回も——)
比佐は七音の手を、さらに力強く握りしめた。
「もう関わるな。お前たちは一緒にいるといいことなんて一つもないんだ」
(そうかも知れない。僕は疫病神。幸運の女神でもなんでもないってこと)
七音が黙り込んでいると、比佐は彼の肩を引き寄せられると、あっという間に抱きしめられていた。
「アメリカ行ってもおれは忘れない。連絡する。日本に帰ってくるのを待っているから。だから。七音。おれと付き合おう。おれはお前が好きだ」
(比佐先輩……)
比佐の気持ちは本物だと感じた。彼は本気で七音のことを好いてくれていると。七音は彼の温もりにしばらくじっとしていた。しかし。首を横に振った。
「確かに。ぼ、僕がいると。獅子王先輩が不幸になるのかも知れない。け、けれども。ぼ、僕は。僕は——」
(それでも先輩が好き。先輩と一緒にいたい)
獅子王が好きだ。太陽みたいに輝く笑顔も。根拠のない言葉も。七音のことを全力で好きって言ってくれるあの獅子王が。
(僕は好き)
「ご、ごめんなさい。ぼ、僕は。先輩の気持ちには応えられません。だ、だって。僕は獅子王先輩じゃないと駄目だから。どんなに嫌われても、知らんぷりされても。僕は、獅子王先輩じゃないと、……駄目なんです」
七音はそう叫ぶと、比佐に頭を下げて走り出した。
(そうだ。僕は。先輩が好き。先輩は迷惑かも知れない。けれど、僕が困っている時に、先輩はいつもそばにいてくれた。だから。僕は先輩の力になりたい。僕ができることをするんだ!)
後ろから比佐の声が聞こえる。
「市立病院だぞ! 七音! 間違えるなよ!」
「あ、ありがとう……ございます!」
七音は必死で走った。自分が走っていったところでなにができる? そんな思いが駆け巡るが、からだは止まらなかった。心配で心配で、胸が張り裂けそうだった。
市立病院は学校から走って30分はかかる場所にある。こんなに長い距離を走ったことはなかった。息が上がる。喉が焼けるように熱くなっても、七音は走った。
市立病院に入ると、受付の女性に声を掛ける。獅子王の名を継げると、受付の女性は救急外来の場所を教えてくれた。
病院になど来たこともない。やっとの思いで救急外来に足を運ぶと、見たこともない中年の女性が七音を見ていた。
「あら……もしかして。輔の学校の?」
七音は頭を下げる。彼女は小柄だが、横幅のある包容力があふれ出ている女性だ。
「輔の母です。悪いわね。心配してきてくれたのかしら」
「……あ。はい。……あの容態は……?」
「ああ」
獅子王の母親は朗らかに笑った。
「平気よ。平気。あの子。からだだけは丈夫だからね。輔。お友達が来ているわよ」
「あ、あの!」
(無事ならいいんだ。僕と。きっと。先輩。会いたくないはず)
七音は首を横に振るが、彼女は七音の腕を捕まえると、そのまま処置室に入っていった。
中にはいろいろな機材が置かれている。その中央にある簡易的なベッドの上に獅子王は座っていた。
「七音——」
彼はふと安堵した顔を見せるが、すぐに視線を逸らした。七音の心がチクリと痛んだ。
彼の左足はいつもの倍以上に太くなっている。固定のギブスを巻かれているようだった。そばには松葉杖が置いてあった。
「ほら。なによ。ありがとうくらい言いなさい。心配で駆けつけてくれたんだから。ねぇ?」
獅子王は困惑したように黙っていた。その瞳は七音を見ることはない。逸らされたままの視線。その横顔は、七音にとったら、とても辛いものだった。七音は「いいんです」と母親に言った。
「無事なら、よ、よかった。それだけを、か、確認したかった、んです。だ、だから。いいんです。僕、ぶ、部活に戻ります。もう少しで、大会、だから——……」
「ごめんなさいね。今日はこんな調子だから。明日から部活には、顔、出させますって言っておいてくれますか。大会なんですものね」
「わかりました」
七音は獅子王を見る。
「す、すみません、でした……。お、お大事に、してください……」
頭を下げてから処置室を後にした七音は、手をぎゅっと握り締めた。獅子王からの言葉はなかった。
心が苦しかった。大好きな獅子王との間にできた溝は、予想以上に深いということだ。
(でも……諦めたくない。だって。僕は……)
病院の出入り口——自動ドアをくぐって外に出ると、秋晴れの空が眩しく見えた。
(泣いている? 泣いたっていいじゃない)
七音は握り締めた拳で目元をごしごしと擦る。
「負けちゃだめ。逃げちゃだめ。だって——もう先輩と会えなくなっちゃうんだから……」
何度も何度も。七音は目元を拭うと、そのまま今きた道を引き返す。大会まで後三日——。
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