第44話 堕ちた王



 翌朝。玄関を開けた。獅子王の姿はそこにはなかった。七音は涙が出そうになるところを、ぐっと堪えた。一晩中、ずっと考えていた。今までだってそうだった。辛いことや、嫌なことがたくさんあった。七音はいつだって、そこから逃げた。自分のことをからかう同級生から逃げてきた。

 素知らぬ振りをして、傷ついていることを押し隠して。何事もない顔で学校に通っていたのだ。

 けれど——。今回はそうはしたくはなかった。わかって欲しかった。獅子王に。自分の気持ちを知って欲しいと心から強く願った。だから。獅子王の姿がなくとも、七音は前を向いた。

「あら。獅子王くん、いないわね。喧嘩?」

 ゴミ捨てに出てきた母親が、後ろから声をかけてきた。七音は「——大丈夫。心配ない」と答える。

 母親は笑った。

「そうね。初めてできた大切な人だものね。大事にしなくちゃ」

「大事にしたいけど。それって難しいことだね……」

「あら、そう?」

 母親は目を瞬かせて笑った。

「なにも難しく考える必要はないのよ。かずちゃん」

 母親はゴミ袋を地面に置くと、七音をぎゅっと引き寄せた。中学生以来、母親にこんなことをされたことはなかったかも知れない。なんだか気恥ずかしくて視線を落とす。すると、母親はからだを離してから、にっこりと笑った。

「言葉はいらないの。気持ちを伝えるのって簡単よ」

「——僕」

「歌で気持ちを伝えてくれる人よ。貴方もそうなさい。ほら遅刻するわ」

 母親はゴミ袋を持ち上げると、再び歩き始める。それを見送ってから、七音は小さく頷いて歩き出す。

(こんな僕に、なにができるのかはわからない。けれど。僕は諦めたくないんだ)

 そう。諦めない。七音は心にそう決めて歩く。大会まで四日——。


 朝からぼんやりとしていた。もうなにもかもが嫌になったのだ。そういう日はなにをやってもうまくいくわけもない。

 七音に合わせる顔がなかった。朝の迎えにもいかず、自分は本当に嫌な奴だと責めていた。

「獅子王。次、理科室だよ」

 歌川は獅子王の隣に立つと、淡々とした声色で言った。

「昨日、七音は練習最後まで頑張っていたけど。獅子王は逃げたね。七音が転校することを一番に言ってもらえないからいじけるとかね。ないよ。本当に。情けなくて涙が出る。本当に辛いのはお前じゃなくて、七音でしょう?」

 獅子王は黙り込んだまま廊下を歩く。

「大切なことだからこそ、言えない事もあるって思わないわけ?」

 歌川は大きくため息を吐く。しかし、獅子王の胸の中は、怒りや落胆でいっぱいだった。

(大切だからこそ、おれに一番に言うべきなのではないか。比佐には話せているのに。なぜ、おれに言わない。比佐には言えて。比佐には言えるのに……)

 ずっと引っかかっているのはそれだ。比佐のこと。七音は、比佐の告白を受けて、キスをされて、どう思ったのだろうか。

 自分が一番、彼を理解していると思っていた。七音にとっても、きっと自分が一番大事だと思っていてくれているのではないかと思ってきた。それなのに。七音は、大事なことを自分ではなく、比佐に話していた。

(比佐はあいつの初恋だ)

 いつ七音の気持ちが比佐には向いてしまったのではないかと思うと、不安で不安で堪らなくない。失いたくないのに。

 獅子王は、自分の内に篭っていたかった。これはある意味、獅子王の自分を守るための防衛本能がさせること。誰に咎められても、それを是正することは難しい。「臆病な獅子だね」

 歌川の辛辣な言葉も、心の奥には届かない。

「悪いか。これが本当のおれだ。放っておいてくれ。お前にとやかく言われる筋合いはない」

「筋合いはない?」

 歌川は眉間に皺を寄せたかと思うと、突然、獅子王の肩を叩いた。獅子王はのっそりと彼を見返す。

「おれが先輩たちに乱暴されて、殻に閉じこもっていた時、うるさいくらい話しかけてきたのは誰? このいじけ虫」

「あの時、お前を救ったのは北部で……」

「北部だけじゃないよ。お前もそうだった。有馬も、保志も。みんなそう。うるさいくらいにおれの周りをちょろちょろして。おちおち閉じこもっていられなかった。お前たちは、お節介で、自分の思いばかり押し付けてきて。もう。呆れた。だから、仕返し。おれもそうする。このままじゃ、七音が可哀そうすぎるもの。こんな情けない、しっぽを巻いて逃げ出すような獅子にはもったいない女王だから」

(なんとでも言ってくれ。おれは傷ついたんだ。放っておいて欲しいんだ)

 今日は天気が悪い。今にも雨が降り出しそうな鉛色の空は、まるで獅子王の心を映しているようだった。

 理科室に到着すると、教師が顔を出した。

「おう、獅子王。いいところに来た。からだの大きいお前に頼みたい仕事がある」

 彼はそう言った。

「なんですか」

「悪いが。新しい人体模型が届いてね。少々重いから。運ぶの手伝って欲しいんだ」

「わかりました」

 獅子王は教科書とノートを歌川に手渡すと、教師と一緒に今来た道を戻る。

 理科室は二階にある。人体模型は職員玄関に届いているということだった。模型の入った段ボール箱は、獅子王の腰高くらいの大きさだが、ずっしりとしている代物だった。周囲に巡らされている梱包用のPPバンドを握り締め、教師と二人でそれを持ち上げる。

「かなり重いですね」

「だろう? 階段、気をつけよう。この変に正方形な形は、足元が見えにくいし。膝が当たって危ない」

「わかりました」

(こんなことをしている場合ではないのに)

 そうだ。もう大会なのだ。授業なんてどうでもいい。自分たちは。先輩たちの思いを引き継いで、全国大会に駒を進めるのだ。

 今度の大会では各県3校ずつ、18校が集まる。その中で全国大会への切符を手にできるのはたったの上位三つだけ。狭き門だ。各県を勝ち上がってきた強豪が出揃うのだ。

 毎年、常連で行く高校の顔ぶれは決まる。どこの学校もそれなりの練習を重ねる中。少しでもその三つに食い込むためには、それらを凌駕する努力と忍耐、そして団結力が必要とされる。なのに——。

(なんだこのざまは。笑われる。先輩たちに知られたら、ぶん殴られるだろうな。この腑抜けがって)

 しかし獅子王はそこまで賢くはない。自分の気持ちの整理がつかない限り。七音と会ってはいけない気がした。

(きっとまた。傷つける。康郎のように。おれは賢くはない。言葉もうまくない。きっとまた。気持ちをぶつけて、傷つけるだけだ。だから。もしかしたら、康郎のほうが、お前にはお似合いかも知れない)

「おい。獅子王。そこは——」

 ぼんやりとしていた。理科教師の声にはったとした時には遅かった。あっという間に世界が反転して、それから体中に痛みが走った。

 自分は——。階段から落ちたのだ。

「獅子王!!」

 教師の叫びに、理科室から歌川たちが飛び出してきた。

「お前! 大丈夫か?」

 階段を駆け下りてきた歌川は心配そうに眉間に皺を寄せていた。自分自身がどうなったのか一番わかっていないが。落ち着いて観察してみると、自分はどうやら荷物の下敷きになっているようだった。

 なんだか懐かしい光景だった。七音を助けた。彼をかばって階段から落ちたのが、昨日のことのように感じる。しかし——。今自分の腕の中にあるのは段ボール箱。七音ではない。

「獅子王!」

「おい、しっかりしろ!」

「おい——」

 光の中。駆け寄ってくる人々の影が七音に見える。

(ああ、おれも、かなりきているかも知れないな)

 獅子王は足に走る激痛に呻き声を上げた。

「救急車! 保健医呼んで!」

「獅子王!!」

(七音を傷つけた。これは、不甲斐ないおれへの罰だ)

 獅子王はその場に大の字になると、目を閉じていた。まるで暗い暗い闇の淵に落ち込んでいくみたいに体が重かった。





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