第43話 信じる


 家に帰りたかった。七音の安全地帯は家だ。家族だ。辛いことがあったら、いつでも帰る場所が家だった。けれど、そうはしなかった。七音は震える手をぎゅっと握り締めてから、第1練習室に戻った。

 歌川は七音の顔を見ると、何事かがあったことを理解してくれたようだった。

「無理しなくていいよ。帰ったら」

 けれど。七音は首を横に振った。自分がここにいられる時間は限られるのだ。

(こんなことで、逃げていたら駄目だ。だって、僕がここにいられるのは、後少し……)

「それにしても獅子王はどうした?」

 保志に尋ねられて、答えに窮していると、歌川のスマートフォンが鳴った。彼は内容を確認してからため息を吐く。

「獅子王のほうがしっぽ巻いて逃げ出したみたいだね」

 歌川はじっと七音を見据えた。

「なにがあった。話してみてよ。おれたちも不安のままじゃ歌えないんだけど」

(それは……)

 七音は「すみません」と頭を下げた。

(また僕は。みんなを不幸にする? 大事な大会前だというのに。僕のせいで……)

 七音は意を決して転校の件を伝えることにした。

「——僕。て、転校するんです。それを。し、獅子王先輩に、とっても言えなくて。だ、黙っていたから。先輩、怒ってしまって……」

「転校するって? どこに?」

 有馬と保志は顔を見合わせた。

「あ、アメリカ」

「アメリカ!? お、お前の父親。なんの仕事なの」

 保志は驚いた顔をしていた。すると有馬が「いつだ」と鋭い声を上げた。七音は「た、大会が終わってから。すぐに」と答える。そこにいた三人は互いに顔を見合わせてから、ため息を吐いた。

「それは……獅子王。がっかりだろうな」

 有馬は眼鏡をずり上げてから押し黙る。保志は両手で顔を撫でると、パイプ椅子に腰を下ろした。

「あの馬鹿。キャパ狭いからね。有事の時は使い物にならない」

 歌川は七音をまっすぐに見ていた。その目は優しく、憐れむような色を帯びている。

「一人で抱えてきたのか。辛かっただろう。あいつにはとても言い出せないことだもんね」

「ぼ、僕。辛くて。どうしようもなくて、つい。ひ、比佐先輩にだけは打ち明けてしまって。それが、ひ、比佐先輩から、獅子王先輩にその話が伝わってしまったので。それで、獅子王先輩、とっても、お、怒って……」

 歌川は「康郎ね」とため息を吐いた。

「悪い子じゃないけど。康郎が絡むとろくなことにならないね」

「お前もなんで康郎に?」

 有馬の問いに、答えられずにいると歌川が口を挟んだ。

「康郎の策に巻き込まれたんだろうね。七音は素直だから」

 歌川は七音を見た。

「お前が悪いわけじゃないんだ。あの二人は昔からのなにかがあるみたい。獅子王は可愛い後輩だと思っている反面、康郎を警戒している。康郎も、尊敬しているように見せて、その実、獅子王への劣等感を抱いているみたい。おれにも理解できない、なにかが二人の間にはあるんだ。お前はそれに巻き込まれただけだと思うよ」

(確かに。二人は幼馴染って)

「近すぎる関係は、アンビバレントな感情を抱くものなんだろうね」

「離れればいいものを。くっつきたくなる。そして面倒を起こす。まったく、難儀な関係性だな」

 有馬もため息を吐いてから、両腕を組んだ。

「さて、どうするんだ」

 歌川は肩を竦めた。

「どうもしないでしょう。これは獅子王の問題だもん。七音は関係ないよ」

「関係ないって」

 保志の意見を歌川はばっさりと切り捨てる。

「七音は転校する。その事実を獅子王には言わなかった。その理由は、獅子王を傷つけたくなかったから。大切な人に悲しい顔をさせたくなかったから。それだけの話じゃない。後は獅子王がそれを受け止めればいいだけの話でしょう。あいつの中の問題だよ。七音は悪くないし、関係ない」

 彼は「さ、練習しよう」と言った。

「獅子王は帰るって。放っておけばいい。あいつが自分なりに答えを出さなくちゃいけないんだから」

「歌川。お前は冷たいねぇ」

 保志は苦笑いをしているが、言われた歌川は「そう?」と小首を傾げた。

「誰も肩代わりできないじゃない。けれど、おれは獅子王なら大丈夫だって思っているよ。七音はどう?」

 歌川は優しい目で七音を振り返った。

(歌川先輩は、獅子王先輩を信じているんだ)

「ぼ、僕も。し、信じています。僕が悪かったけれど。けど、ぼ、僕の気持ちも、わ、わかって欲しい。そして、獅子王先輩なら、きっと。わ、わかってくれるって信じています」

 歌川は「よし」と満面の笑みを見せる。彼がこんなにも艶やかな笑みを見せるのは、北部の前だけだと思っていた。見惚れる、とでもいうのだろうか。いつもはつっけんどんで、冷たい印象の彼だが。彼は彼なりに、自分たちのことを心配してくれている、ということが理解できた。

 七音は歌川、有馬、保志の顔を順番に見た。彼らはみんな、七音をまっすぐに見てくれている。

(僕には、とっても大切な人たちができた)

 優も。曉も。そして陽斗も。

 歌川は七音にその細い手を差し出した。 

「さ、歌おう。お前は残りの時間、ここでできることをすればいい。そうでしょう?」

(僕にできること)

 七音はしっかりと頷いた。

「お、お願いします」

(この前は歌えなかったこのパートを。僕は絶対に歌う。高梨になんか負けない。僕は最後に歌うんだ)

 その様子を見ていた有馬と保志も頷き合った。

「そうだな。おれたち五人で歌うのは最後かも知れない。やるだけやろう」

 七音はぺこりと頭を下げた。

「あ、ありがとうございます。僕のお願い、聞いてもらって」

「お前……」

 有馬は笑った。

「まったく。最初はおとなしくて頼りない女王だったけど。立派な女王になったみたいだ。これも先々代の女王様のおかげかな?」

「茶化さないで。これは七音が自分で手に入れたものなんだから。——大事にしないといけないよ。投げ出しては駄目。諦めても駄目。ねえ、そうでしょう。七音」

「——はい!」

(そう。僕は諦めない。獅子王先輩が僕を信じてくれたように。今度は僕が先輩を信じる。僕は逃げない。僕は、ここで——歌う)

 七音はぎゅっと手を握り締めていた。保志がピアノで最初の音を弾いた。ベースがいない五重奏は、なんとも味気ないものだが、四人は歌った。みんなが獅子王を信じている気持ちが伝わってくるようだった。




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