第42話 壊れた心
獅子王が第1練習室に入ると、そこには他のメンバーたちが集まっていた。有馬は「やっと来たな」と安堵の表情を見せるが、獅子王の様子が尋常ではないと気がついたのだろう。すぐに表情を強張らせた。
獅子王は有馬に一瞥をくれると、隅に座っていた七音の目の前に立つ。隣にいた歌川が事態を察したのか、すぐに二人の間に入った。
「お前。七音をどうするつもりだ」
「別に。どうこうするわけではない。——七音。話がある。ちょっといいか」
七音は目を見開き、獅子王を見上げている。その場にいた全員がただ黙って二人を見つめていた。歌川は獅子王の腕を掴んだ。
「全力でぶつかるな。七音が潰れる」
「わかってる」
(わかっているが——)
不安気な七音に構わず、獅子王はその細い腕を握ると、乱暴に引いた。自分で自分が制御できないくらいに動転していたのだ。
「獅子王!」
心配そうな歌川の声が聞こえるが、そんなものは無意味。そのまま七音を連れ、比佐と話をしていた裏庭に戻る。当然のことながら、比佐の姿は見えなかった。
獅子王はその手を乱暴に放すと、七音の肩を両手掴んだ。
「康郎に告白されたのか。康郎とキスをしたのだな?」
七音の見開かれた双眸から光が消えた。
(ああ、これは真実。康郎の嘘ではない)
彼は顔色を蒼白にし、「あ、あの——」と唇を震わせた。
(こんな顔させたいんじゃない。おれは、お前が笑っていればいい。そう思っていたはずなのに)
その唇が。獅子王を名を愛おし気に呼ぶ唇は、比佐も受け入れていたのかと思うと、腹が立った。怒りが沸々を湧き上がり、気持ちがどうにもならない。
「なぜ、おれに言わなかった」
「だ、だって……」
あんなにも、スムーズに話ができていたというのに。今の七音は、出会ったばかりの頃みたいに、言葉が一つも出てこないみたいだった。そうさせているのは自分だ、とわかっているのに。止められない。
「おれに隠さなくてはいけないなにかがあるのか。お前は康郎を追いかけて梅沢に来たんだ。その男に告白されて、さぞや嬉しかったか」
(なぜだ。なぜ、おれには言ってくれないのだ……!)
獅子王の心は悲鳴を上げていた。一度湧いてきた疑念は大きく膨れ上がる。比佐と笑みを交わす彼の横顔が脳裏から離れない。
(お前の隣にいることを許されるのは、おれではなく康郎だというのか?)
「それに。もっと大切なこと。おれに隠していないか?」
七音の体が強張るのがわかる。饒舌ではない分、彼はすぐに体に反応が出る。
「そうか。大事なこと。おれに隠しているということだな」
「ち、違う……んです。僕。ちゃんと、言わなくちゃって」
「なら、なぜすぐに言わない」
「だって——」
「康郎には言えて、なぜおれには言えない!」
——やめろ。これ以上は駄目だ。
頭の中で警笛が鳴っているというのに、止めることができなかった。
——康郎の策に乗るな。
(違う。乗っているのではない。これはおれと七音との問題だ。あいつは関係ない)
自分の中の葛藤で精一杯で、目の前の七音のことを見ているつもりなのに、意識は内に向いていて、ちっとも彼のことなど頭にはないのだ。
——こんなこと馬鹿気ている。やめろ。獅子王輔。こんなことはやめろ。
わかってはいるのに。やめられない。行き場のないこの気持ちを。彼にぶち当ててどうするというのだ。
——全力でぶつかるな。七音が潰れるぞ。
歌川の警告が耳に響いたその瞬間。獅子王の意識は七音に戻った。はったとした。目の前にいる七音の大きな瞳から涙が零れ落ちていた。彼はただ黙って。声も上げずに、涙をこぼしていた。
(泣かせた。おれだ。七音を泣かせたのは——おれだ)
獅子王の腕から力が抜けた。なんだか馬鹿らしくて、情けなくて。自分は劣って見えた。
(そうだ。おれはいつだって——)
——康郎と比べられてきた。
比佐は頭がよかった。公立中ではなく、受験をして附属中に行った。母親はいつも比佐を褒めていた。そして最後には必ず「輔はねえ」と憐れむような視線を向けてきた。
合唱部に入った時もそうだ。今でこそ部長をしているが、落ちこぼれだった。北部のテストで落第点を取った。
「お前、本気で合唱を続けるなら、死ぬ気でやらないとね」と北部は笑っていたけれど、呆れていたのだろう。それなのに。比佐は違う。彼は附属中で鍛えられた美声を披露して見せる。
まるで曉と七音だ。いや、自分は七音よりも劣っている。すぐに他者からの刺激に揺らいで、フラフラとして、頼りのない部長だ。こんな自分を大切に思ってくれている七音を泣かせるなんて。不甲斐なさ過ぎて自分にも腹が立った。
七音の瞳からは次から次へと涙が零れ落ちていく。彼はポツリと言った。
「僕。アメリカに……い、行くんです。に、二週間後、なん、です……。だから。せ、先輩との時間。大事にしたくて。と、とても、い、言えなかった……」
「な——っ! そ、そんな。急な……」
「すみません。い、言い出せなかった。だ、だって……。ぼ、僕。先輩と離れるのが、い、一番、辛いから……!」
七音は頭を下げると、「失礼します」とだけ言って走り去っていった。
取り残された獅子王はただそこに。呆然と立ちつくばかりだった。
(七音がいなくなるだって?)
衝撃的過ぎて、どうしたらいいのかわからない。獅子王はそのままベンチに座り込んだ。それから頭を抱える。
「クソ!」
獅子王は「うおおおおお」と天に向かい雄叫びを上げる。心が壊れてしまいそうだった。
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