第41話 闇の波紋



 七音の後ろ姿を見送っていた獅子王の隣に、男が一人、立ち止まった。

「朝からイチャイチャっすね」

 比佐は大きな欠伸をして見せる。獅子王は大きくため息を吐いた。

「康郎。お前。また遊んでいたのか?」

「へへ。いいじゃないっすか。プライベートまでとやかく言われる筋合いないっす」

 彼は寝ぐせだらけの頭を掻いて笑った。その表情には生気が見て取れない。獅子王は心配になった。

「大会も近いのだ。素行は乱すな」

「はいはい。わかってますよ」

 彼は大きな背伸びをしながら昇降口に入っていった。

「なんだ。あいつは……」

 いつもの比佐とは違った雰囲気に首を傾げていると、その後ろから彼の友人である堀切瑞樹がやってくる。

「先輩。おはようございます。康郎、もう行っちゃいました?」

「堀切。なんだ康郎は。どうしたというのだ」

「あ、先輩も気がつきましたか?」

 堀切は弱ったような顔をした。

「あいつ。しばらく大人しかったんですけど。なんかここ数日、遊びが激化していて。やけっぱち、みたいな感じで。危うくて。心配です」

「なにかあったのか?」

「それがわからないんですよ。大抵のことは、おれに教えてくれるんですけど。あいつ。大事なことほど口にしない。いっつも一緒にいるのに。あいつの心の内は、おれでもわかりません」

(ああ、そうかも知れないな。あいつは昔からそうだった——)

 獅子王は比佐が消えた昇降口に視線を遣った。

 獅子王は昔から面倒なことが嫌いで、習い事の一つもしていなかった。そのせいで、時間を持て余していた。学校が終わると、ランドセルを家に置いて、すぐに公園に駆け出す。

 すると、いつもそこには比佐がいた。後から知ったが、比佐の家は離婚でいた。母親は康郎を育てるために仕事を必死にこなしていた。彼もまた、一人でその時間を持て余していたのだった。

 昔から頭の回転が速い男だった。人好きのする笑顔に、誰もが彼に好意を寄せる。二人は正反対なタイプだったというのに、そうやってともに時間を過ごした。

 しかし、それも獅子王の中学校への進学で幕を下ろす。一足先に中学生になった獅子王は部活が忙しく、比佐と遊ぶことはなくなった。

 比佐は比佐で、獅子王とは別の道を選んだ。再会したのは、梅沢高校の合唱部だった。

 久しぶりに会った比佐は変わってしまっていた。獅子王と離れた後、比佐は夜な夜な遊び歩くようになった。母親同士が知り合いだったおかげで、時々、比佐の母親が、比佐の素行の乱れについて、獅子王の母親に相談をしている姿を見るようになっていたのだ。

(康郎は変わってしまった。あの頃のあいつではない)

 比佐は獅子王に軽口を叩く。有馬は「よろしくない」と怒っているが、比佐が自分と話すには、そうでもしないといられないということを理解していた。

(おれと康郎の間には大きな壁がある)

 久しぶりに会った比佐は、あの頃の比佐ではなかった。いつの間にかできた壁は、獅子王にはどうすることもできなかった。けれど、比佐は獅子王の前に現れた。自分のことなど、もうすっかり知らんぷりすればいいだけの話なのに。比佐はやってきたのだ。

(あいつは。あいつはなにかおれに求めていることがあるのではないか)

 獅子王は堀切を見下ろした。

「おれが話す」

 堀切はぺこりと頭を下げてから、昇降口に入っていた。

(お前の苦しみ、おれにはわからない。けれど。おれにできることがあるなら。おれはなんでもしよう。お前は大事な友人だからな)

 獅子王はじっと押し黙り、そして比佐のことを考えていた。

 放課後、獅子王は二年生のクラスに足を運ぶ。大会前だということで、合唱部員たちは、走って音楽室に向かう者も多い。そんな中。比佐はいつまでも自分の席に腰を下ろして窓の外を眺めているようだった。

「話がある」

 声を掛けると、比佐はノロノロとした動作で廊下に出てきた。獅子王は比佐を連れ、音楽棟の裏庭に足を向けた。

「堀切が心配していたぞ。お前、最近変だと。なにかあったのか」

 比佐は、獅子王を見ようとはしなかった。彼は視線を逸らし「別に、なにもないっすよ。いつも通りです」と答える。

「おれが聞いても、力になれるかどうかわからないが。思うこと、話してみたらどうだ」

「別に。だから、なにもないっすよ」

「そうだろうか。なにか思いつめている顔をしているぞ。お前、本当に好きで夜遊びをしているというのか? おれにはそうは見えないのだが」

 比佐は笑った。けれど、その目は笑っていない。冷たい冷たい目だった。

「なんか先輩はおれのこと、勘違いしているんじゃないっすかねぇ。女の子と遊んでなにが悪いんですか?」

「悪い」

 獅子王はきっぱりと言い切った。比佐は「はあ?」と声を上げると笑い出した。

「なんなんっすか。先輩」

「お前が『悪いんですか』と聞いたから、おれは『悪い』と答えた」

 獅子王は目を合わせようとしない比佐をじっと見据えたまま言った。

「お前は遊びで人の心を弄ぶような奴じゃない。おれは知っている。お前の本質を。ヤケを起こすな。自分自身を貶めるな。見ていて辛くなる」

「それは先輩の思いじゃないですか。いい加減にしてくださいよ。おれの人生はおれが決めるんだ。口出しはやめてください」

「いいや、やめない!」

 獅子王は比佐の両肩を捕まえる。

「お前は七音のことも守ってくれる。お前は優しい奴だ」

(そうだ。お前は優しい人間だ。七音のことも放っておけないのだろう? お前は昔からそうだった)

 しかし比佐は「あー、あれっすか?」と口元を上げた。

「あれは。優しいからなんかじゃないっす。なんていうか。おれも好きなんですよ。七音のこと」

 獅子王の心に。闇の波紋が広がった。

 ——康郎が、七音を好き……? 

   七音も、康郎が好き……。

「この前の合宿の時。キスしました。甘い味がした。耳まで真っ赤にしちゃって。可愛い奴です」

(キス……だと?)

 獅子王の目の前が真っ暗闇に閉ざされる。闇の波紋は大きくなって、獅子王を染めていく。

「あ、そういえば。あいつ泣いていましたよ。先輩には話せないことがあるって。すっごく大切なことだったけど、先輩には言えないんですって。聞いてます?」

(この男。なにを言っている?)

 比佐は獅子王の反応を伺うように言葉を切ってから、「ああそうか」と笑い出した。

「なんだ。なにがおかしい」

「いや。だってさ。聞いてないんですね? 本当に?」

「なんの話だというのだ」

 康郎はひとしきり笑うと、「いや、だから」と言った。

「大切な話だしね。おれからは言えないでしょう? 聞きたいなら本人に聞いてみればいいですよ。あいつ。そっか。そうなんだ。獅子王先輩には言っていないんだ。やっぱりあいつは、おれのこと……」

 比佐は意味深な笑みを浮かべたまま獅子王を見つめていた。獅子王は拳を握り締める。

(七音が隠し事などをするわけがない)

 もう一度、自分自身に言い聞かせる。これは比佐が仕掛けた心理戦だ。昔から、頭のいい比佐は、人の心を惑わす能力に長けていた。単純一直線の獅子王は、いつも騙されてばかりだった。そのことをわかっているというのに。心の中の疑念はむくむくと大きくなるばかり。

「まったく先輩には呆れますね。おれのことを心配してくれたのかも知れないけれど。ご自分の心配をされたほうがいいと思いますよ。おれなんかより、七音を見ていないと。あっという間におれみたいな奴に寝取られるんですからね」

 獅子王は比佐を押し退けると、音楽棟に戻る。

(くそ。お人好し過ぎだというのか。七音はなにも言っていなかった。なぜおれに言わない。もしかして、七音も。あいつは元々、康郎が好きだった)

 花見の時に泣いていた七音を思い出した。比佐を思っての涙。嫉妬した。恐れていたことが起こったのだ。居てもたってもいられなかった。獅子王は音楽棟へと足を踏み入れると、五重奏の練習場所である第一練習室を目指した。

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