第7章 僕は歌う
第40話 愛されるということ
大会は刻一刻と近づいてきた。全国大会への切符がかかった大切な予選である。珍しく北部の機嫌も悪かった。部員たちは不安にさいなまれ、互いに自信を失いかけている。特に一年生たちの間では、全国は無理なのではないか……という噂さえ流れ始めていた。
(あと一週間しかないんだ。それなのに——これでいいのかな。こんな調子で、大丈夫なのかな……?)
憂鬱な気持ちのまま、身支度をして階下に降りていくと、母親は朝食の準備をしていた。珍しく父親の姿が見えなかった。
「あれ? 父さん。仕事?」
母親に尋ねると、彼女は「そうよ」と暗い声色で答える。なんだか嫌な予感がしながらも席に座ろうと椅子を引くと、ふと母親が言った。
「アメリカ。10月10日に決まったのよ」
(え——?)
七音はカレンダーを見る。大会の次の週だった。
「それまでに荷物整理しないといけないじゃない。もう、忙しくって、困っちゃうわ。まったく。なんでお父さんがアメリカなんかにね」
「——……そう。そうなんだ……」
(二週間しかないんだ……)
七音は席に座るのをやめて、「行ってきます」と言った。
「あら。
「いらない」
「まあ、大会の練習で大変なんでしょう? ちゃんと食べないと。獅子王くんに心配かけちゃうわよ」
七音は首を横に振った。
「大丈夫。行ってきます」
玄関を開ける。いつもより早い時間だというのに、獅子王はそこにいた。彼はこうして。いつも七音を待ってくれている。
「おはよう。七音」
「おはよう、ございます」
七音は頭を下げた。それから、獅子王はそっと手を差し出す。七音は迷うことなく、その手を受け取った。
あの夜。合宿の夜。二人は思いを遂げた。なにが変わるのか七音には想像もできなかったが、からだの繋がりができたあの夜。二人の距離は一気に縮まった。
心だけではない。獅子王の熱が、こうして肌に感じられることが嬉しくなった。獅子王の熱い手に握りこまれた自分の手には、その強い思い、安心感が伝わってくる。
(みんな不安。けれど、大丈夫。獅子王先輩がいれば、梅沢合唱部は絶対に大丈夫なんだから)
そっと彼を見上げると、獅子王はいつもの笑みを見せる。
「すまないな。お前たち一年生には不安ばかり与えている。三年生も色々と不安なんだ。全国大会への思いが強すぎてな。肩に力が入りすぎているのだ。許してやってくれ」
「大丈夫です。僕たち。せ、先輩がいれば、大丈夫」
(あれ?)
七音は目を丸くした。獅子王もそれに気がついたのか。にこっと笑みを見せた。
(僕。今、うまく喋れた?)
「お前はお前のままでいい。おれはどんなお前でも、お前が好きだ」
獅子王は時々。よくもこんな恥ずかしいことを言うものだ、というような台詞を吐く。七音は耳まで熱くなった。
「可愛いぞ。朝から。学校に行くのはやめにしたいくらいだな」
不意にその逞しい腕が腰に回ってきたかと思うと、七音はあっという間に引き寄せられた。
獅子王の唇が耳にくっつく。
「——駄目。だ、駄目です」
彼の素肌の感触。繋がっている時の熱を思い出し、目の前がチカチカとした。顔が熱くなって俯くと、獅子王が笑った。
「いやらしいことを想像しただろう? 可愛いな。お前は」
獅子王は七音の頬に口付けを落とすと、七音を解放した。眩しい朝陽の中。二人は互いの存在を確認し合い、そして通学路を歩く。
獅子王と一緒にいるときは、一抹の不安も感じることはない。まるで七音は無敵になったような気がした。こうして自分のことを大事に思ってくれている人がいるだけで。こんなにも強くなれるのだろうか。
こんな感覚は初めてだった。家族から得られる安心感とは違った安心感。
学校生活の他愛もない話をして歩くこの時間が。七音には宝物。
(あと二週間。僕はこの時間を大事にする)
正門のところに来ると、ちょうど優と鉢合わせになった。
「朝から見せつけてくれるじゃないですか。部長」
優は「うしし」と悪戯な笑みを見せた。獅子王は「うるさい」と彼を一喝すると、七音を優の元に押し出した。
「おれは寄るところがある。鯨岡と行くといい」
これは獅子王の優しさ。七音は頷いてから頭を下げた。
「いこう。七音」
「うん」
優に誘われ、七音は昇降口に入る。
(あと二週間。あと二週間——)
心の中ではカウントダウンが始まっていた。
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