第38話 日常の中にある幸せ


 ひとしきり泣くと、心が少し落ち着いた。なんだか気恥しい気持ちにもなったが、比佐はいつもの調子で七音の肩をポンポンと叩いた。

「それってさ。絶対じゃないんだろう?」

「ぜ、絶対……じゃないですけど。ぼ、僕、ひ、一人で暮らすなんて、で、できるかな……」

「じゃあ、おれが面倒みてやろうか?」

 七音が目を見開くと、比佐は「冗談だろう」と言って笑った。

「あのさ。あんまり難しく考えても仕方なくない? なるようにしかならないんだからさ。ほら、行こう。夕飯にありつけなくなる」

 比佐はそう言って、七音にその形のよい手を差し出した。獅子王の大きな手とは違う。どこか繊細なその手を、七音はそっと受け取った。

 七音の心の中は、ぐちゃぐちゃに混乱していた。転校のこと。獅子王のこと。そして比佐のこと。足元がふわふわとしていて、夢の中にいるみたいだった。

 比佐に連れられて家庭室に足を踏み入れると。ジャガイモの皮むきをしていた優が片手を上げる。

「大丈夫? 七音」

 どうやら、パートで別れて夕飯を作っているようだった。エプロン姿の優たちは、慣れない手つきで、野菜の皮むきををしているところだった。

「あれ? 歌川先輩は料理しないんですか」

 比佐はエプロンを取り出して支度を始める。そのそばでただ座っている歌川は首を横に振った。

「おれの、料理の下手さは歴史に名を残すほどだ。おれが手を出さない方がおいしくなる」

「ただ野菜カットしてルーを入れるだけのカレーですよ。どこをどうしたら不味くなるんですか」

 堀切は唇を尖らせるが、歌川は相手しない。

「いいから、さっさと手を動かす。他のパートから遅れを取っている。これじゃあ、食べる時間がなくなってしまうじゃない」

「だってー。うちは人員が不足していたんですから」

 煮込みに入っているほかのパートを余所に、まだまだ野菜を切っているトップテナー。比佐は腕まくりをした。

「どれ、いっちょやりますか」

 彼は軽快にまな板を鳴らし、野菜をカットし始める。周囲は感嘆の声を上げた。

「比佐先輩って、料理うまいんっすね」

 曉の感想に、堀切が得意げに頷く。

「あいつ。家庭科5だから」

「すごいっす」

 七音は比佐の姿をぼんやりと見つめた。なぜ、彼に相談してしまったのか。自分でもわからない。本来であれば、一番先に言うべきは獅子王だというのに。獅子王の顔を見ると、とても転校のことを言えなかった。

(がっかりさせる。悲しませるに決まっている。先輩……)

 ベースパートのテーブルに視線を向けると、獅子王はお玉を片手に鍋の番をしているようだった。有馬あたりに弄られたのだろう。大きなからだには不似合いな、白い割烹着を着せられている。彼は、七音の姿を見つけたのか。安堵したように笑みを見せた。

(心配かけさせちゃ駄目。もう少しで大事な大会なんだから。今度こそ僕は歌う。そして、全国大会の切符を先輩にプレゼントするんだ。それが僕にできる最後のこと——)

「大丈夫か。お前」

 はっとして顔を上げると、比佐に場所を明け渡し、移動してきた曉が立っていた。七音は「うん」と頷いて見せる。

「寝不足……だった、みたい」

「はあ? お、ま、え!」

 曉は突然、七音の両方の頬をつねった。

「あだだだ」

「ふざけんなよ! 心配かけさせやがって!」

「おいおい! 曉!」

 曉は、仲裁に入ってきた優に「こいつ。具合悪いのは寝不足だってよ」と言った。優も呆れた顔をした。

「子供じゃないんだから。遠足前に眠れなかったです的なのはなしだよ。七音」

 ほっぺたから手が離れる。つねられた頬がじりじりと熱い。

「ごめん。ちゃんとする。今日は寝る」

「そうして。明日もあるんだから」

 優は苦笑した。その間にも比佐の作業は着々と進む。

「よし。後は人参が柔らかくなったらルーを投入しましょう」

「おー」

 周囲からは拍手が巻き起こる。「やっぱ、お前いないとな」と笑う堀切とじゃれ合っている様子はいつもの彼だった。

 ——おれ。お前のこと、好きになっちゃったみたいだ。

 あの比佐の言葉は本気だった。いつものらりくらりとふざけてばかりいる比佐なのに。あの時の目は。まっすぐに七音を見ていた。そしてあの目は——。

(獅子王先輩が、僕を『好き』って言ってくれる時の目と同じ)

 七音は自分の気持ちを伝えたが、比佐はどう思ったのだろうか。結局、その答えがわからぬまま。しかし、それはそれでよかったのかもしれない、と七音は思った。

 七音の心は決まっていた。いくら比佐を追いかけてここに来たとは言え、今の自分が大事に思うのは獅子王だけ。比佐の気持ちに答えることはできないのだから。

 比佐が自分に告白をしたことを、獅子王が知ったらどうなるのか。今のような関係が続けられないのではないか。

(そんなことはダメ。獅子王先輩と比佐先輩は昔からの仲良し。僕のせいで仲が悪くなるなんて、絶対にダメだ)

 このことは秘密にしよう、と七音は心に決める。

(余計な心配をかけたくないもの)

 比佐の唇の感触が残っている。胸がズキンと痛んだ。すると優が七音の名を呼んだ。

「ねえ、聞いているの? 七音。ずっとさぼっていたんだから。ルー入れは七音がやるんだからね」

「わ、わかった」

 七音は、持参してきたエプロンをかぶると、鍋の前に立つ。

 この日常に。タイムリミットが設定された。けれど、その限られた時間を自分は大切にしたい。だからこそ。前を向いていこうと、七音は心に決めた。

(だって、僕の大切な時間なんだもの)


 

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