第36話 騎士の口づけ
午後の練習が終わった。部員たちは、夕飯の準備のため、家庭科室に移動した。結局、七音は姿を見せなかった。休憩の時に、隣にいた獅子王に尋ねると、「あいつは準備室で休ませている」と言っていた。
部員たちは持参してきたエプロンをつけて、その疲れた体を引きずりながら移動している。それを眺めていると、ふと歌川に呼ばれた。
「七音の様子を見てきて。もし起きていたら、夕飯食べさせるから。家庭科室に連れてきて」
サブマスターは雑用が多い。比佐は「わかりました」と頷くと、一人で渡り廊下を戻り、北部が使っている音楽準備室へと向かった。
部員たちはみんな家庭科室だ。料理に不慣れな部員をまとめるため、三年生たちは四苦八苦しているようだ。誰もいなくなった音楽棟は、夕日が差し込み、しんと静まり返っている。
比佐はそっと準備室に足を踏み入れた。準備室には、北部が仮眠をとるために設置されている簡易ベッドがある。七音はそこに静かに横たわっていた。
比佐はそっと、彼のそのそばに立った。夕日が赤々と準備室の床を照らしていた。
「七音」
彼の名を呼んではみるものの、寝息を立てている七音は起きる気配が見られない。比佐はそっと屈みこむと、まるで吸い込まれるように、七音の唇に自分の唇をくっつけた。
七音の唇は冷たくて気持ちがいい。舌先で舐め上げると、七音のからだがピクリと動いた。比佐は両腕を簡易ベッドに押しつけ、そのまま深く口づけを落とす。
まるで
(ずっとこうしていたいけれど……)
音を立てて離れた唇。「——先輩?」と七音の唇から最愛の人を呼ぶ声が聞こえた。嫉妬した。比佐は「違うよ」と答えた。
すると驚いたように、七音のその大きな瞳が見開かれた。それから比佐の顔を確認すると、弾かれたように体を起こした。
「ひ、比佐、先輩……?」
「そうだよ。キスしたのは、おれだ」
「——ど、どうして?」
七音は自分の唇を指で触れると、比佐を凝視していた。その瞳は驚きと、そして恐れに支配されている。
(そんな顔しないで。悲しくなる)
比佐は簡易ベッドの隣に腰を下ろす。
「この前。お前を背負った時に思い出したんだ。お前。中学の時、桜並木のところでうずくまっていたヤツだろう? 三中だよね?」
「——そ、それは……」
「ねえ、もしおれがそれを思い出したらどうなるんだろう? お前、どうするの?」
七音は困惑したように視線を彷徨わせていたが、小さく頷いた。
「ど、どうするって……。せ、先輩は。ぼ、僕のこと。忘れている、みたいだったから。でも、ほ、本当は、お、お礼が言いたかったんです。そ、それで。僕。梅沢高校に——」
七音の白い頬は朱色に染まる。比佐は嬉しい気持ちになって笑い出した。
「嘘だろう? おれに、お礼言うために梅沢高校に来たの? おれがいるの知って?」
七音は首を横に振った。
「ふ、附属中の人は。そのほとんどが、梅沢高校に行くって、聞いたので。も、も、もしかしたらって、お、思って」
「はあ? お前。変わってんな。おれがいなかったら意味ないじゃん」
「——すみません」
七音は更に顔を真っ赤にしながら俯いていた。
(そういう、わけわかんないところが可愛い)
比佐はそっと七音の首裏に手を回し、そして彼を引き寄せた。
「せ、せ、先輩?」
「ごめん。知ってる。お前が獅子王先輩のものだって。けど。おれ。お前のこと好きになっちゃったみたいなんだ。ねえ、七音。お前はおれのこと、どう思っているんだろうな……。お礼言うためにわざわざ高校まで追いかけてくるって。ねえ、本当はお前、おれのこと……」
比佐の肩に顔を埋めている七音の表情はわからない。けれど。
(あーあ。すげぇ、困っているよな。泣く? お前。ごめんね。困らせたいわけじゃないんだけど……。止まらない。もうこの気持ち)
七音は微動だにしなかった。体がカチカチに固まっているようだった。比佐は目を閉じてから、さらに力強く、七音を抱きしめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます