第35話 深淵
この合宿は「強化合宿」と銘打っているだけあって、ともかく歌う、歌う、歌うのスケジュールだった。
一日目は、朝8時に集合し、昼まで練習。昼ご飯は持参した弁当を食べ、それが終わると休憩なしで、午後の部がスタート。夕方5時まで練習。そこから家庭科室にて自炊開始。運動部の部室のシャワーを利用し、入浴を終えると、7時半から10時まで練習をするというものだ。
二日目は、6時起床。朝食を食べた後、すぐに練習開始。昼食を挟んで、夕方6時まで練習だ。
残暑厳しい9月。いくらエアコンがあるとは言え、部員たちの体力はみるみる間に削られて行く。その中で一番元気なのは北部である。長時間、邪魔が入ることなく練習ができる環境を、彼は楽しんでいるようだった。
「では10分の休憩」
北部は上機嫌なまま音楽室を出ていった。それを見送った部員たちは、一斉にその場に座り込んだ。獅子王は「水分摂っておけ」と部員たちに声をかける。北部の練習はその時の気分によって左右される。次に休憩が取れるのは、一時間後か。それとも夕飯までノンストップか。それくらいの話なのだ。
部員たちは疲労困憊だが、これもまた毎年恒例のこと。獅子王は一人ずつの顔をしっかりと観察し、異変がないかどうかを確認していた。と——。
「七音」
獅子王は慌てて七音の元に駆け寄った。
彼は床に座り込んで真っ青な顔をしていたのだった。
「どうした。具合悪いか?」
「——」
彼は口で呼吸をし、そして目を閉じている。
「す、すみません。大丈夫、です」
「大丈夫じゃないだろう?」
そばにいた優も「そうなんです」と口を挟む。
「さっきから体がユラユラしていて。座って休めって言っているんですけど。全然いうことをきかなくて」
獅子王は七音の額に手を当てる。どうやら熱があるわけではないらしい。むしろ彼の額は氷のように冷たくなっていた。
(貧血でも起こしているのかも知れない)
獅子王は彼を抱え上げる。
「ちょ、先輩。大丈夫、です」
「大丈夫ではないだろう。——歌川。北部のところに行ってくる」
有馬と楽譜を挟んで議論を交わしていた歌川が顔を上げる。彼は、獅子王と七音の様子を見て、状況を理解したようだ。
「わかった。任せて」
「頼んだ」
騒然となる音楽室を後に、獅子王は音楽室の隣にある準備室の扉を開けた。
「隣の芝生は青い——か」
ふと口をついて漏れた言葉。隣にいる友人の堀切瑞樹が「なんだって?」と問い返す。
「いや。別に」
「お前。最近変だぞ?」
堀切はそう言った。
(そうかな。おれ、変かな?)
比佐は音楽室の段差に腰を下ろし、頬杖をついてため息を吐いた。
「確かに。変なのかも知れないな」
「自覚ありなのか? おいおい」
堀切は大きくため息を吐く。
「ここんとこ、女子高生とちっとも遊ばなくなったじゃないか。部活部活ってのめり込んでいるみたいだし。珍しいじゃん。『部活なんて暇潰し。女の子のいない場所になんて、いられるか』って豪語していたくせに」
「そっか……そうかな。そうかも知れないな」
比佐は呟いた。
(そうかも知れない。なんでだろう? 別に。女の子と遊ばなくてもいいやって思っちゃう。それよりなにより)
すると、音楽室が騒然となった。獅子王が七音を抱え上げているのが見えた。獅子王に抱えられている七音の顔は、血の気も失せ、具合が悪そうに見えた。
(ああ、なんだろう)
「なあ。瑞樹……」と比佐は呟いて、事の次第を静観していた。
歌川となにやら言葉を交わした獅子王は、七音を連れたまま音楽室を出ていった。それを見送りながら、比佐はため息を吐いた。
「どうして、人のものって欲しくなるんだろうな」
「は? へ? お、お前。なに言い出すんだよ?」
堀切は素っ頓狂な声を上げた。そんな様子がおかしくて、比佐は口元を緩めた。
「驚きすぎ」
「おま、お前。なに急に。人のものって。だ、駄目だぞ。まさか篠原のこと気になっているんじゃないだろうな」
「うーん。どうなんだろう?」
「やめておけよ。獅子王先輩のだぞ? 手、出したら殺されるんだから」
隣で騒ぐ堀切はうるさい。比佐は大きくため息を吐いてから立ち上がった。すると、そこに北部と獅子王が戻ってくる。彼の手に七音の姿はなかった。彼らは歌川と有馬のところに行き、四人でなにやら神妙な顔つきで言葉を交わしていた。そのうちに、話がついたのか。北部が「練習再開するぞ」と言った。
休憩をしていた部員たちは立ち上がり、所定の位置に戻る。獅子王たちも同様だ。
すると、不意に堀切に胸倉を掴まれて、引き寄せられた。
「なんだよ?」
比佐は惚けて堀切を見るが、彼の目は真剣そのものだった。
「お前。変な気を起こすなよ。篠原は獅子王先輩のだ。お前のじゃない」
「——そんなこと、知ってる」
(そんなこと。お前に言われなくても知っているんだ……。けど)
堀切の腕を振り払い、比佐は所定の場所に立ち尽くす。
「それじゃあ、課題曲のIからもう一度、やってみるよ」
北部は腕を振り上げる。比佐の唇からは、なにも考えなくても歌が勝手に零れ出ていた。もうそれくらい何千回と練習したフレーズ。
(七音は可愛い。そして、七音を愛でる獅子王先輩の目もいい)
比佐はそんなことを考えていた。
獅子王が、七音を大事にすればするほど、七音が美しく見える。
獅子王を見るときの七音の視線。その瞳はキラキラと輝いて、まるで宝玉のようだ。獅子王が好きで堪らない気持ちが、ヒシヒシと伝わってくる。
——ああ、欲しい。
喉から手が出るほど、七音が欲しい。人のものであると思えば思うほど。その欲は増長する。
おかしくなったのは、あの大会の時だった。中学校時代の同級生に虐められて、みじめにも床に屈みこんでいる七音の姿を見た、その瞬間。思い出したのだ。
(あの子。あの桜並木でうずくまっていた三中生だ)
夜遊びで寝坊して遅刻したある朝。通学路で見かけた七音は、野良猫みたいに惨めに見えた。男には興味はない。無視しようかと思ったのに。なぜか比佐は彼を助けた。
(小さくて、頼りなくて。誰かがそばにいてやらないと、生きていけないような存在だと思ったのに)
それがどうだ。今彼は、獅子王に愛され、そして神々しく輝いてみえる。女王の風格を持ち始める彼から、比佐は目が離せなくなっていた。
いつもは荒々しい獅子王の視線は、優しく七音に注がれている。
それに答えるように、七音は微笑み返す。
——ああ、羨ましい。
——あの笑顔。おれにも向けて欲しい。あの細い腰を抱いて、おれのものにしたい。
(くそ。おれは変態野郎か)
比佐は顔をしかめる。すると、北部の指揮が止まった。
「比佐。違うことを考えているな。ちゃんと集中しろ」
「すみませーん。女の子のこと考えちゃいました」
いつもの調子で舌を出すと、北部は「まったくお前は」と呆れたように笑った。けれど、比佐は笑えない。
(嘘。全部嘘。おれは嘘ばっかり吐いて生きている。女の子が好きなんて、別にどうでもいい。おれは、おれの中を満たしてくれるものが欲しいだけ)
彼の心の奥にはいつでも黒い闇が渦巻く。
(どうでもいいんだよ。どうでもいい。なにもかも。ただ、七音が欲しい)
花見の時。七音は自分に礼をしていた。あれは、あの時のこと。そうに違いない。変なやつだと思っていたが、七音はあの時のことを覚えていたと言うことだ。
獅子王が隣で「大丈夫か?」と心配気な表情を向けてきた。
(先輩はお人よしだ。まったく、苛つく。この人は……昔から。そうだった)
比佐は「大丈夫っす。すみません。あんまり練習長いから、飽きただけです」と答えた。
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