第6章 明らかになった思い
第34話 舞い込んだ悲報
県大会を通過した合唱部が次に目指すのは支部大会だった。そこでは、各県の代表校が激突することになるため、県大会とは比べ物にならないくらいのハイレベルな戦いになる。
しかし、この高い壁を乗り越えないことには、全国大会への切符を手に入れることはできない。
そのため合唱部は、毎年この時期に強化合宿を行っている。場所は学校。土曜日の朝に集合し、日曜日の夕方までみっちりと練習をするのだ。
金曜日の夜。明日からの泊まりの準備をしていると、そこに珍しく早い帰宅をした父親と鉢合わせになった。
「合宿なんだって?」と彼は言った。父親は妙に疲れ切った顔をしていた。確かに忙しい仕事だが、いつも穏やかで、比較的感情の起伏が少ない彼が珍しいことだった。
「お、お帰り。……どう、したの?」
バスタオルを片手にそう尋ねると、父親は手招きをした。
「ちょっといいかな」
彼はネクタイを緩めると、ゆったりとした動きでリビングに姿を消した。不安な気持ちを押し込めながら、七音は父親の後を追った。
ソファに座った父親を、夕飯の支度をしていた母親も、テレビを見ていた奏も、手を止めて注視していた。遅れて入った七音の姿を確認してから、父親は言った。
「転勤だ。一か月後に——」
母親が「え?」と声を上げた。
「急ね。どこに行くの?」
「アメリカだ」
(アメリカ!?)
七音は驚いて思わず家族を見た。揚げ物をしていた母親は、菜箸を落とす。奏の手からも、スマートフォンが滑り落ちた。
「な、なに? 急に」
我に返った母親は、菜箸を持ち上げると、ガスの火を消し、エプロンで手をふきながら父親のそばに歩み寄った。彼はネクタイを緩めたまま、ため息を吐く。
「日本は超高齢社会の先進国だからね。認知症の新薬開発の協力依頼が来ていてね。先輩が行っていたんだけど。体調を崩してしまったみたいで。急遽、おれに白羽の矢が立ったってわけだ」
(アメリカだなんて。急すぎる。しかも一か月後……?)
心臓が大きく高鳴っていた。しかし、奏は嬉しそうに「きゃー」と声を上げた。
「お父さん! 私も行く! アメリカの学校に通う」
彼女はソファの上で飛び上がった。そんな彼女を母親が窘めた。
「貴方はずっとそうしたいかもしれないけれど。そんな陽気な話じゃないでしょう? お父さんの気持ちも考えなさいよ」
父親は暗い顔をしていた。突然のことで一番ショックを受けているのは彼だろう。けれど、七音の心の中も嵐が吹き荒れていた。
(ここを離れるの? 僕……)
「長くなりそうなんですか」
母親の静かな問いに、「わからない。長くなる可能性もあるそうだ」と父親は答えた。
「まあ……。それにしてもアメリカだなんて。随分と突拍子もない話ねえ」
「いいじゃない。一緒に行こうよ。私も助かる~。どうせ行きたかったんだもん」
「奏はいいけど。
「
奏は七音を見た。
七音は困惑していた。一人で日本に残ると言う選択肢もあるのだろうが、家族から離れて暮らすことなど、まだまだ考えられなかったからだ。
「教授からは家族も連れていくようにって。資金は大学で負担するって、念を押されちゃって。先輩は、単身でアメリカに行って、体調を崩して戻ってくることになってしまったから、心身ともにサポートしてくれる家族は一緒にって方針なんだ——」
父親と母親、姉の会話は続いているが、まるで夢の中のようだ。生まれてからずっと、この四人で暮らしてきた。誰かひとりが欠けるなどということは到底想像できないことだ。
(僕……。ここにいられなくなるの?)
七音は不安と恐怖で息が上がった。七音は、タオルを握ったまま、自室に駆け上がった。
(みんなと——お別れになるの?!)
自室に入ると、タオルを床に投げつけてから、ベッドに倒れ込む。
ショック過ぎて、頭の中が真っ白になった。心にあるのは、獅子王や優たちとの別れ。
「そ、そんなの……嫌だよ……!」
涙が溢れ出す。いくら泣いても、現実は変わらないことも知っているのに。涙はとめどなく溢れていった。
結局。眠れなかった。父親も同様なのだろう。朝、階下に降りていくと、目の下にクマを作った父親が小さい声で「いってきます」と出ていった。それを見送っていた母親は、七音の顔を見て「あら、
こんな状況でよく笑えるものだ、と思った。確かに。母親は専業主婦だ。彼女にとったら、居住地が日本でもアメリカでも関係ないのかも知れない。
「辛気臭い顔しているわね」と奏も納豆ご飯を食べながら言った。彼女の手には、アメリカの大学の一覧本があった。心はすっかりアメリカに行っているのだろう。それもそうだ。奏は英語が好きで英語の専攻科に通っている。卒業したら、海外の大学に通いたいという希望があるのだ。彼女にとったら、願ったり叶ったりの展開である。
(嬉しくないのは、父さんと僕だけ……か)
「そんな顔で大丈夫? 今日から合宿なんでしょう?」
「うん——」
七音は食パンをトースターに突っ込んだ。朝食は食べたいものを自分で準備する。それが篠原家のルール。チョコクリームをたくさん塗ったトーストを頬張り、それから歯を磨いて荷物を持つ。
「いってきます」
「ああ、
母親が後ろからなにやら話かけてくるが、もうどうでもいい話だ。七音はさっさと家を後にした。
外に出ると、そこには獅子王がいた。
「おはよう。七音」
「先輩——」
あの一件以来、獅子王はこうして毎朝のように、七音の家の前まで迎えに来てくれていた。いつもであれば、彼の笑顔にほっとする時間であるはずなのに。
(先輩と、お別れになっちゃうなんて……)
七音の気持ちは沈んでいた。
「どうした? 元気がないな。それに、顔色が悪いようだが」
「だ、大丈夫です」
「七音?」
「平気、なんです。大丈夫です。……が、合宿。楽しみだな」
七音はにこっと笑みを作る。すると、獅子王はあまり納得していないような顔をしていながらも「そうか」と言って、手を差し出した。七音はその手をそっと握り返す。
この日常が。一か月後にはなくなってしまう——。そう考えただけで、胸が苦しくなった。けれど。だからと言って感傷に浸っている場合でもないこともわかっている。
(一か月後。一か月後ってことは……、次の大会が終わった後、アメリカに行く。この前の大会は失態だった。次の大会こそ。僕は、ちゃんとする。最後になるのだから——)
獅子王に連れられて音楽室に入ると、すでに部員たちは集まっているようだった。いつもと変わりのない風景だった。
「おはよう! 七音!」
七音を見つけた優が手を振る。隣にいた曉や陽斗も手を振る。
(この日常が——なくなる? いや。やめよう。考えても意味もない。僕は、今を大事にする。それだけ)
七音は首を横に振ると、友人たちの元に駆けていった。
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