第33話 いつも忠実に貴方を愛す
獅子王の歌声に驚いた母親は、玄関手前で立ち尽くしている七音を押し退けて、外に飛び出した。
「あらやだ。そんなところで……」
そんな声が聞こえてくる。玄関の扉が開くと、獅子王の歌声は、もっと大きく、もっと力強く、七音の心に届いた。
獅子王はヒキガエルの独唱曲を歌っていた。定期演奏会の時に上演した親指姫は、鎌田によって脚色され、ヒキガエルの王子として獅子王は舞台に立った。
あの時。獅子王であるヒキガエルの王子は、親指姫への求愛として、イタリア歌曲を一つ歌った。アントニオ・カルダーラ作曲の「Sebben crudele(たとえつれなくとも)」だ。
Sebben crudele,(残酷な貴方よ)
mi fai languir(貴方は私を窶れさせるが)
semple fedele(いつも忠実に)
ti voglio amar.(貴方を愛したい)
獅子王の歌声は、内に秘めた情熱を押し殺すかのように、静かに、ゆったりと旋律を紡いでいく。
(先輩。先輩……)
七音の心は獅子王でいっぱいになった。歌が終わると、大きな声が聞こえた。
「七音! 聞こえているか! おれはここにいる! おれはお前を迎えに来たのだ! 頼む。戻ってきてくれ! おれにはお前が必要だ!」
近所中に響き渡るような声。顔から火が出そうになる、とはこのこと。七音は恥ずかしさで、頭のてっぺんまで熱くなるのを感じた。
「おれには歌しかない。だから歌う。お前にはなにがある? 一緒に歌え! 七音!」
今度は、彼は五重奏のベースパートを歌い出した。
七音の中の、消えていた音が。まるで泉の水が湧くように、自然に溢れ出す。今までどう頑張ってみても、唇から歌が出てこなかったというのに。堰切るように、歌が溢れ出した。
そろそろと靴を履き、外に足を踏み出す。外に出るのは、何日ぶりなのだろうか。赤々と燃える夕日が妙に眩しく感じられた。
七音の枯れていた心に音楽が満ちていく。獅子王の姿が視界に入った。彼は七音の姿を見つけたのか、満面の笑みを見せてくれた。
(先輩。先輩。先輩……っ)
その笑顔に心の中がはち切れそうだった。
獅子王の周りには人だかりができている。彼の突然のリサイタルに、近所の人たちが外に出てきたようだ。
七音の唇から、声が出た。五重奏の
(僕だったら、こう歌う)
七音は必死に歌った。獅子王のベースの伴奏に合わせて。自分が歌うべき旋律を。
(この旋律は僕の歌うべきもの。曉じゃない。ここは……、僕が歌うところ!)
人だかりの中で、獅子王は歌い続けていた。そして両腕を広げる。
——七音。
優しいその瞳の色は、最初の時と同じ。全てを。全てを受け入れてくれる獅子王の愛情の深さが。その瞳には宿っている。何度も、何度も、自分の名を呼ばれているような気がした。
七音は腕を伸ばし。そして獅子王の元に歩み寄った。彼はそっと七音のからだを抱き締めると、耳元で「お帰り」と囁いた。
「た……、ただいま」
言葉などいらない。二人の間には、歌さえあればいい。言葉など、なんの意味もない。凍りついていた世界が、春の訪れのように色鮮やかに変わった瞬間だったのだ——。
俯いたまま「おはよう」と呟いた。朝の廊下は騒々しく落ち着かない。合唱部の一年生たちは、毎朝、廊下で会合を行っているのだ。友人たちは、七音の登場にじっと息を潜めているようだ。
けれど。臆することはない。七音は、彼らに深々と頭を下げた。
「今回は……。ほ、本当にごめん。め、迷惑を、たくさんかけて。本当に、ご、ごめん」
(許してもらえなくても。僕は……)
すると、肩に手がかかった。顔を上げると、それは曉だった。
「怒ってるぞ。おれは」
「曉」
優が窘めるように曉の名を呼ぶ。けれど、曉は険しい顔をしていた。
「おれは、お前の練習に付き合っていて、おれでも歌えるって自負していた。けどな。ステージで歌ってみると、やっぱり違った。あのパートはおれの声質には合わない。お前が歌うべきだ。それなのに。お前ときたら。ステージを放り出した。おれはそんな甘い奴は嫌いだ。さっさと合唱部を退部しろ」
「曉! 言い過ぎだ」
優は本気で怒った顔をしていた。けれど。いいのだ。そうして欲しい自分もいる。獅子王は絶対に自分を責めない。だからきっと。誰かに責めて欲しいと思っていたのだろう。曉は。その一番嫌な役回りを敢えてしてくれているのだ。彼の優しさ。七音はそう感じた。だから、また頭を下げる。
「こ、今回の件は、と、と、取り返しもつかないことだと思う。ど、どうやったって、僕のしたことは許されることではないって、わかっている。だから……。ぼ、僕は辞めない」
七音は曉を見上げる。彼はじっとその視線を見返してきた。
「や、辞めることが、せ、責任を取ることだとは思わない。次は。ぜ、絶対に。う、歌ってみせる。それが、僕の役割、だから……」
(本当にできるの?)
迷いがないわけではない。けれど。もう心に決めたのだ
——試練を乗り越えて、上のステージに上がるのよ。
母親の声が響く。じっと押し黙り、まるで七音の真意を測ろうとしている曉の視線をそのまま受け止め続けていると、ふと彼が笑った。
「わかったよ。お前さ。見た目からは想像できないくらい、頑固なのな」
「……曉だって……」
「おれは頑固さ。合唱馬鹿だからな」
「お前ら。どっちもどっち、な」
陽斗も笑みを見せた。優を見ると、彼は目に涙を浮かべている。よほど心配してくれていたのだろう。
「うう。七音~! お帰り! 本当に心配したんだからね」
彼は「わーん」と鳴きながら、七音に抱き着いてくる。
「わわわ……」
思わず抱き留められずに廊下に倒れ込む。しかし優はお構いなしだ。
「あ、あんな奴さあ。次はぎったぎただぞ。うちの可愛い七音にひどいことして! 山野辺高め! あいつら、金賞だったけど、うちよりもぐっと順位低いんだから。おれたちで圧倒しちゃおうぜ!」
「優……」
こうしてみんなが自分を大事に思ってくれるのか。七音は嬉しい気持ちになった。
(みんなが仲間)
「一人で抱えるな。嫌なことは嫌って言え。聞いてやるんだから」
曉は両腕を組むと、ぷいっと視線を逸らした。
「うん——。うん!」
(仲間。友達。大切な人たち。僕にもできた。宝物)
いつまでも縋りついてくる優の背中をよしよしとしていると、「こら、お前たち!」と学年主任の声が響く。始業時間になっているようだ。
「また合唱部か!」と教師は舌打ちをする。
(ああ、またやっちゃった!)
七音は優に手を引かれて、慌ててクラスに入った。
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