第32話 神の悪戯
(こんなことをしていたって、仕方がないって、わかっているけど)
みんなに顔向けができない。中学校時代、色々なことがあっても、一度も学校を休んだことがなかったというのに。七音は、自分で自分のことがよくわからなくなってしまっていた。
家族には、なにがあったのかを話していない。しかし、食事や入浴の時に、顔を合わせても、なにも聞かれることはなかった。
七音にとって、それは安全地帯でもある。今まで、いろいろなことがあっても、頑張れるのは家族の力が大きいかもしれない。
「
母親の声が響く。時計の針は夕方の6時を差すところだった。
「マフィンを焼いたのよ。味見してちょうだい。この前、奏に『おいしくない』って言われたから。リベンジ」
階下に降りていくと、甘ったるい匂いがした。いつもなら、特に気にするような匂いでもないが。なんだか心に染み入る匂いだった。ダイニングの椅子に腰を掛けると、母親は鼠色のミトンを両手に、オーブンの天板を持ってきた。その上には、淡い杏子色のマフィンが載っている。
「これ、なに?」
「人参マフィンよ」
「な、なんで。人参……」
「騙されたと思って、食べてみてよ」
熱々のマフィンを一つ持ち上げてみた。それから、てっぺんに噛りつく。
「あ、熱い!」
「子どもでもあるまいし。気をつけなさい」
彼女はニッコリと笑みを見せると、天板をキッチンに持って行った。黙ってマフィンを頬張っていると、ふと母親が七音の名を呼んだ。
「学校、嫌になっちゃったの?」
「嫌ってわけじゃない。け、けど——」
「けど?」
「僕……」
このことは、家族には話すつもりはなかったのに。マフィンの甘さがそうさせるのか。それとも、時間が経過して心が少し落ち着いたのか。七音は先日の出来事を母親に語った。マフィンを冷ますために、天板から網の上に移動をさせながら、母親は小さく頷いて、時折「そう」とか、「ふうん」とか相槌を打っていた。
「ぼ、僕は。やっちゃいけないことをした。み、みんなに。顔向けできない」
母親は七音が話が終わると、手を止めてから七音を見つめた。
「確かに。与えられた責務を全うできなかった、という点では七音に非がありそうね」
自分で自分を責めていた。だが、どこかでは、人のせいにしたいという気持ちもあった。そんな甘えな気持ちの中で、他者から改めて言い渡されると「ああ、やっぱりそうだ」と気持ちが収まるところに収まったような気がした。
「——そうだ。ぼ、僕が悪い」
七音は食べかけのマフィンを見下ろして、そう呟いた。しかし、母親は彼を責めることもなく、ただ優しい声で言った。
「けど。運が悪かったってこともあるわよね。それはあなたには、どうすることもできないんじゃない」
「確かに。あんなところで、た、高梨に会うなんて、思ってもみなかった。でも、よく考えれば、中学校の、同級生に、あ……会うことだってあるわけで。それは、僕の予測が甘かったってことで」
母親は「ふ」と笑った。
「
「へ?」
目を瞬かせて母親を見返すと、彼女は「だって、そうじゃない」と言った。
「どこで誰に会うかなんて。そんなことをコントロールできる人間はいないわよ。これは神様の悪戯ってやつよね。
「か、神様の悪戯? これは……試練?」
「そうよ。人は試練に見舞われて、それを乗り越える努力をすることで、一段階上のステージに上がれるの。ゲームと一緒よ。一面クリア。ゲームもね、段々と難しくなるじゃない。人生も同じよ」
(そうかも知れない。けど)
「けど。打ち勝つことができなかったから。みんなに……。め、迷惑をかけた」
(そうだ。すごく迷惑を……)
しかし母親は朗らかに笑った。
「あらやだ! まだ入部して数か月なのに。そんなに
「え!?」
七音は息を飲んだ。
「それに。ねえ。あなたが人生で初めて信頼してもいいって仲間に巡り合ったんでしょう? みんな。こんなことで、
(優からはメールがたくさん来ている。それに。先輩からも……。怖くて見ていないけれど。知らんぷりしている僕のほうが、とっても失礼なことをしているのかもしれない)
手元にある食べかけのマフィンを見下ろしていると、玄関のチャイムが鳴った。母親はミトンを外すと「はいはい」と言いながらインターフォンの通話ボタンを押した。
「あら、あなた……」
「何度もすみません! 梅沢高校合唱部長の獅子王です。七音くんに会わせていただけませんか?」
インターフォン越しに響く獅子王の声。たった数日、耳にしなかっただけなのに。その重低音は、七音の心を大きく揺さぶる。七音は思わず立ち上がった。けれど——首を横に振った。
(まだだ。まだ。心の準備ができていないから。先輩には会えない)
母親は七音を見てから、通話ボタンを押し「ごめんなさいね」と答えた。
「七音は調子が悪くて。まだ伏せているんです。毎日来てもらって悪いんだけど。ごめんなさい。お帰りください」
彼女はため息を吐いてから、インターフォンから離れる。
「毎日、こうして来るのよ。彼。よっぽど、
母親が肩を竦めた瞬間。突然。外から歌声が聞こえてきた。それは、獅子王の深く艶やかな響きのある歌声だった。七音は慌てて玄関に走っていった。
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