第30話 人魚姫



 曉は見事に代役を果たした。

(結局。一声も出すことができなかった——)

 ステージには立たせてもらった。けれど。一つも声が出なかった。まるで声を奪われた人魚姫のように。一つも。なにも。声が出せなかった。

(先輩の……。大事な大事な大会だったのに。僕は、なに一つ、できなかった)

 情けなくて。悲しくて。けれど、涙の一つも出てこない。「どうせ」という気持ちでいっぱいだ。

(でも、きっと良かったんだ。曉のほうが上手だもの。僕が歌わなかったことは、結果的によかったことなのかも知れない)

 ——冗談やめてくれよ。お前。歌なんて歌えんの?

 あれから。高梨の声がずっと脳内に響いている。昨日は一睡もできなかった。今日は学校だというのに。七音は、朝から自室のベッドでうつ伏せになっていた。

 昨日。演奏が終わると、「体調が悪そうだから、先に帰るように」と北部に言渡された七音は、一人、帰途に就いたのだ。

 獅子王は自分が送ると言ってきかなかったが、部長が不在になるわけにもいかない。所詮、無理な話である。他の部員たちも、自分たちの演奏が終われば、再び係に戻る予定になっている。そこまで迷惑をかけるわけにもいかないのだ。

 いつまでも心配そうな顔をしている獅子王には、家族が迎えに来ると嘘を吐いて、七音は一人ホールを飛び出した。

(僕は……、やっぱり。合唱部になんて入らなければよかったんだ。七の女王だなんて嘘っぱちだ。僕のせいで、みんなが危機的状況に陥ったんだ。僕は、勝利の女神なんかじゃない。不幸の神だ!)

 昨日から、スマートフォンには、獅子王や優からの連絡が入っている。しかし、どんな顔をして返信をすればいいというのだ。

 本番前にみんなを動揺させ、不安に陥らせた罪は重い、と七音は自戒の念にかられていた。

 寝返りを打ち、膝を抱えて横になる。小さく丸まってみると、もっともっと小さくなって、泡のように、ここから消えることができるのかも知れない。そう思った。

(調子に乗っていたんだ。みんなにちやほやされて。だからきっと。神様がバチを当てたんだ。本番前に高梨に出会ってしまうなんて。神様が……。きっとバチをくれたんだ)

 ——七音。

 柔らかに笑う獅子王の顔が浮かぶ。

(僕は……。先輩が思っているような人間じゃないんです)

 ずっと抱えている劣等感が噴出してしまった。

 言葉のことを馬鹿にされても、黙ってそこにいた。それは、平気だからではない。どうしても抗うことができなかったから。心を閉ざしていただけだ。

 沢山傷ついている心を。七音は見て見ぬふりをしてきた。それが今。その傷を自覚してしまった。到底受け入れられることではなかった。

(寂しかったんだ。僕だって、友達が欲しかった)

 勉強に打ち込んだのは、そんな気持ちを忘れるためだ。いくら勉強で一番を獲っても、心が満たされることはなかった。

 テストの点数を見せあって笑っているクラスメイトたちが羨ましくて。その輪に入ることなどできるはずもないのに。自分がそこにいることができたらと、ずっと考えていた自分を。見なかったように、なかったように。ずっと押し隠してきた。

 梅沢高校に入学し、自分にも友人ができ、そして、獅子王という存在が現れた。それが日常になったのだ。ずっと憧れていた環境が手に入った自分は。

(それを当たり前と思っていた。だから。神様が……)

 膝を抱える腕に力を入れると、自室の扉がノックされた。相手は母親だった。

かずちゃん。お客さんが来ているんだけど。——獅子王くんって、知っている人?」

(先輩?)

 時計に視線をやると、夕方の5時。まだ部活の時間のはずだが。

かずちゃん。出てこられるの?」

(無理だよ。だって。どんな顔をして会えば——)

 七音は必死に声を振り絞った。

「か、か、帰ってもらって」

 母親は「だって。せっかく来てくれたのよ」と困ったような声をあげた。しかし、七音は枕を頭にかぶせると、首を横に振った。

「い、いいから! 帰ってもらって!」

 声が上ずってうまく出てこない。

(もういいんだ。合唱部なんて辞めよう。もう、先輩に迷惑をかけられないもの。情けない。高梨に立ち向かうこともできない弱虫。先輩の隣にいる資格なんて、ない!)

 ドア越しに母親がため息を吐くのがわかる。彼女は「わかった。帰ってもらうね」と言った。ギシギシと遠ざかっていく母親の足音を聞きながら、七音は布団をかぶった。






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