第29話 悪夢
——ドッキン、ドッキン……。
まるで耳元に心臓があるみたいに、鼓動が大きく響いていた。口で呼吸をしながら視線を上げると、目の前には比佐の背中が見えた。「なんだよ。アンタ」と高梨は悲鳴を上げて、掴まれた腕を引っ込めた。
「七音はおれの可愛い後輩なんだけど。七音が君に、なにか失礼なことでもしたのかな」
比佐の声色は、いつもとは調子が違っていた。それはとても冷やかで、いつもの彼からは想像もできないものだった。高梨は、捕まれた手を眺めながら舌打ちをした。
「べ、別に。ただ。おれは、そいつと同級生で——」
「同級生? 七音。友達なの?」
比佐は敢えて大きな声で言った。七音は必死に首を横に振る。
(違う。確かに同級生。けれども。高梨は……友達なんかじゃ……)
「あらあ。友達じゃないみたいだね。残念。君の片思いかな? 悪いけど。おれたちこれから本番だからね。くだらないことに付き合っている暇はないんだけど」
高梨は眉を吊り上げて怒りを露わにした。
「クソが。生意気なこと言ってんじゃねーぞ。篠原! それに、くだらない……だと?」
比佐は両腕を広げると、肩を竦めて見せる。
「ああ、そうだ。くだらないね! ここにいるのは、歌うことを目的に集まっている連中ばかりだよ。人を構っていられるほど暇な奴なんて、君くらいなものだね」
比佐の声色は怒りを含んでいる。空気がビリビリと痺れるような雰囲気に、高梨はまるで子どもみたいに体を縮こませる。高梨は、比佐の圧にすっかり恐れをなしているようだった。
それから「ち」と、小さく舌打ちをすると七音を睨みつける。
「お……お前なんか、上手く歌えるわけない! おしゃべりだって、うまくねーんだからな。調子に乗ってんじゃねーぞ!」
高梨は吐き捨てるように叫んだかと思うと、雑踏に姿を消した。
「ちょっと大きな声を出してやっただけで、しっぽを巻いて逃げていった。あはは、なんだ。あいつ。情けないな」
比佐は腰に手を当てて笑った。次の演奏が始まる。観客の出入りが途絶え、ホールは静寂を取り戻す。しかし。七音の心臓は大きく波打ち、冷や汗がとめどなく流れ落ちた。
七音は地面に蹲ってしまっていた。
「おい。七音。大丈夫か?」
「——……す、す、すみ……ま、せん」
「すみませんって。お前……。あんな馬鹿、気にすんな。みんなお前の歌を聞いたら驚くって。あんな奴、あっと驚かせてやれって」
比佐の声色はいつもの彼だった。けれど、七音の動悸は止まらない。怖かった。どこかで、高梨が聞いているのかと思うと。とてもうまく歌える気持ちにはならない。
(僕……、僕……)
口を開け、荒い息を吐く。するとからだが浮いた。あっという間に比佐に抱え上げられたのだ。
「な……っ!?」
「まったく。手の掛かる奴だ。あーあ。なんか、男を背負うのは二度目な気がするんだけど……」
比佐は軽々と七音を背負った。周囲の女子高生たちから、黄色い悲鳴が上がる。しかし比佐はお構いなしだ。
(ああ。この温もりは……)
前に感じた温もり。比佐の背中は温かい。混乱していた心が、ゆっくりと落ち着きを取り戻すのがわかる。
(僕は、この温もりが好きだった。だから梅沢高校を目指した。けれど)
比佐の背中に顔をくっつけて。それでも思い出すのは獅子王の顔。
(僕……駄目かも知れない。先輩。先輩……)
「あれ? なんかこのシチュエーション。どこかで……。もしかして、お前って……」
比佐はそう呟いているが、答える気力はなかった。ただ黙って目を閉じることしかできなかった。
「七音!」
リハーサル室の前まで行くと、ウロウロとしていた獅子王が、比佐に背負われた七音を見つけて駆け寄ってきた。
「どうした。なにがあった!?」
「詳しいことは本番終わってからでいいっすか? 時間が」
比佐は軽く答えるが、獅子王は「しかし」と食い下がる。だが、時間は待ってはくれないのだ。リハーサル係の女子高生が「早くお入りください」と怒り気味で言っていた。
いつまでも七音の元から離れようとしない獅子王の腕を有馬が引いた。
「お前は部長だ。心乱すな。みんなが不安になる」
有馬は獅子王の耳元で囁いた。七音も同感だ。先に集まっていた優たちも不安そうな顔をしていたからだ。
(僕のせいだ。みんな。僕のせいで。みんなが不安になっているんだ)
「そんなことは、言われなくともわかっている。お前は黙っておけ」
獅子王は牙を向く獣のように有馬を睨みつけた。
(やめて。喧嘩、しないで)
比佐から降ろされた七音は獅子王の腕を掴む。獅子王は有馬から視線を外すと、七音を抱き止めた。
「七音……。お前。なにがあった?」
七音はただ首を横に振った。心配をかけたくない。けれど、声が出ないのだ。
(すみませんって、言いたいのに。どうしよう。声が。声が出ない。先輩。僕、どうしたら……)
涙が滲む。どうしたらいいのかわからなかった。
リハーサル室に部員たちを入れていた北部は、七音の元に遣ってきた。それからじっと七音を見下ろしていたかと思うと、曉を呼んだ。
「矢吹。七音のパート。歌えるね?」
「それは……。教えるのに毎日練習していますから。でも、おれでは」
曉は七音を見ていた。まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
申し訳ない気持ちでいっぱいになって、涙が零れそうになるが、そんなことは無意味だということも理解している。必要なのは、そんな悲嘆や謝罪ではない。歌うことなのだ。
「無理するな。お前はいい」
獅子王の言葉に首を横に振るが、北部も頷いた。
「時間がない。今回は、矢吹に任せること。チャンスはまだあるからね」と言った切り、リハーサル室に入って行った。
(僕は……なにもできなかった)
「おいで。七音」
獅子王の手を握る資格などない。まるで悪い夢を見ているようだった。七音は何度も首を横に振ってから、リハーサル室に足を踏み入れた。
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