第28話 傷


 定期演奏会も終わり、夏休みはあっという間に過ぎ去った。こうして二学期が始まったすぐの週末。全国大会の地区予選にあたる県大会が開催された。

 会場は地元の音楽ホール。定期演奏会を開催した「お風呂ホール(命名:七音)」だ。

 地元開催となると、高校生たちは、大会運営の手伝いに駆り出される。もちろん、梅沢高校もだ。

 コンクールの開催には、たくさんの人手が必要だ。受付係、出場団体の誘導係、ホールの扉の開閉係、審査員の接待係、ステージ係などである。

 それらの係を、各学校が分担して担う。梅沢高校は、会場運営の手伝いが割り振られていたため、自分たちの出演時間以外は、交代でホールの扉の開閉を行なっていた。

 上位大会への出場権をかけた予選だ。演奏中は客の出入りが制限される。七音たちは、扉の内外に一人ずつ配置され、演奏が終わるたびに、扉を開けて、客の出入りを促す。演奏が始まると、ぴたりと扉を閉め、何人たりとも出入りをさせない。それが仕事だ。

 自分たちの演奏も気になるとこであるというのに、手伝いまでさせられて、一年生たちは気持ちが落ち着かない。いつもはあっけらかんとしている優ですら、その笑顔がこわばっているようだった。

 七音は、ホール外、ホワイエに置かれたパイプ椅子に腰を下ろし、日程表を眺めていた。どこからか、他校の演奏が微かに聞こえてくる。女性の美しい声だった。

 七音も昨日から緊張していた。深夜に目が覚め、それからずっと眠ることができなかったおかげで、気分が悪い。頭の芯がズキズキと痛んでいた。

 けれど、そんなことはどうでもいい話だ。今日の演奏をしっかりこなす。それが大事。今まで勉強以外のことをしてこなかった七音にしてみれば、人生で初めての大事な局面なのだから。

 会場に来てから、ずっと心臓は早いテンポで鼓動している。どこか夢うつつのような、足元が覚束ない感覚だった。

 七音は手元にあるスケジュール表を必死に眺めていた。県内各地からたくさんの学校が集まっている。出場学校は、分刻みで動いている。集合後、リハーサル室に移動。そこで声出しをしたり、最終確認をするのだ。それを終えると、今度はステージ袖に移動し、そして本番を迎える。

 緻密に組まれたスケジュール。遅れは許されない。自分たちも仕事にかまけて遅刻をしないようにと釘を刺されていたのだ。

(僕たちの出番は最後から6つ目。集合時間、そろそろだな)

「七音」

 自分の名を呼ぶ声に、はったとして顔を上げると、そこには比佐が立っていた。

「お前、なにぼさっとしている。集合時間、過ぎているぞ。お前だけだぞ。いつまでも座っているの」

(え!)

 驚いて優が座っていた場所に視線をやると、いつの間にか、そこには交代要員の女子高生が座っていた。

 比佐の隣には、やはり女子高生が恥ずかしそうに立っている。比佐は「ごめんね、うちの女王が」と爽やかな笑みを見せる。女子高生は、比佐の態度に顔を赤くした。

「何度か声をかけたんですけど。聞こえていなかったようなので」

「す、すみません!」

(やっちゃった!)

 緊張しすぎて、上の空だったらしい。ちょうど演奏が終了し、中からドアが開く。それを合図に、女子高生に場所を明け渡し、七音は比佐について歩き出した。

「ごめんね。またね!」

 比佐が手を振ると、彼女は恥ずかしそうに手を振りかえした。

「知り合い、で、ですか?」

「いやー? 初めて。それよりもさ。先輩たちはもう集合場所に行っているから。おれがお前を呼びに来た。まったく鯨岡もなんでこの子を置いて行っちゃうのかね」

 比佐はブツブツと文句を言っている。優も緊張しているようだった。自分のことで精いっぱいなのだろう。致し方ない。そう思った、その時。

「篠原?」

 自分の名を呼ぶ声に、七音は足を止めて振り返った。

 ホールの出入りで混雑しているそこに、一人の男子高校生がいた。市内の山野辺高校の制服を纏っているその人物を、七音は知っていた。

「た、……高梨……」

 そこにいたのは、中学校時代、なにかと突っかかってきていた高梨だったのだ。

「篠原だろう? え、お前、なに。合唱部に入ったの?」

 ——お前の話し方、変なの。

 高梨の言葉が脳裏によみがえった。

 ——お前、しゃべるのやめてくんない? 笑っておれまで話せなくなる。

 心臓が大きく跳ね上がった。

「冗談やめてくれよ。お前。歌なんて歌えんの? えー……」

 七音の視界から色が消える。まるで時間が止まってしまったかのようだ。中学校時代の同級生の笑い声が。笑っている顔が。ぐるぐると頭の中を回転していった。

 あの時は、それが日常茶飯で。どうでもいいことだった。なにを言われても、いつものことだと思っていたはずなのに。

(——なぜ、今。今なの?)

 七音の額には冷や汗が滲み、息が上がった。自分の鼓動だけが妙に大きく聞こえて、周囲から音が消える。

「おい、……聞い……の? 相変わらず、……どんくさい……だな」

 高梨の声が、途切れ途切れに聞こえてくる。それから、彼の手が自分に向かって伸ばされる。

 七音は必死に体を縮めた。「もう駄目だ」と思ったが、高梨のその手は、七音には届かなかった。比佐が高梨の腕を掴んでいたのだった。

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