第27話 助奏者


「お前のパートはオブリガートだ」

 目の前に座る曉はそう言った。七音は目を何度も瞬かせてみる。聞き間違いだろうかと思ったのだ。

「そ、それは、どういう意味? 曉。オ、オブラート? つ、包み込む?」

 曉は黙って立ち上がったかと思うと、課題曲集を丸めて、七音の頭をスコンと叩いた。

「——っ!?」

「バカかお前。本当にやる気あんのかよ。もうさ。嫌になる。なんでおれじゃなくて、お前なんだよ」

「ご、ご……めん」

(そうだ。こんな大役。曉のほうがいいに決まっている。なんで先生は僕なんかを選ぶんだろう)

 曉は「はあ」と大きなため息を吐くと、椅子に腰を下ろした。それから七音を見る。

「オブリガートっていうのは、声楽でソロを引き立てる伴奏役のことを言うんだ。助けるに、奏でるで、『助奏じょそう』ともいう。つまりは、歌川先輩のトップの主旋律メロディを邪魔することなく、うまく引き立てるように彩を添えるのが、このカウンターテナーの役割ってことだ。そこのところは頭に叩き込んでおけ」

「わかった。う、歌川先輩の、じゃ、邪魔、しない」

「そうだ。けど、小さくても困る。トップ以外のパートはみんな伴奏みたいなもんだ。ほら見てみろ。三つのパートが同じ動きをしているだろう?」

 曉は楽譜を指し示す。楽譜は読めないが、同じ長さで動いていることはよくわかった。

「ほ、本当だ……」

「そのくせ、こっちのカウンターは音符の数が多いだろう?」

 七音は頷く。

「そして、歌川先輩のメロディが収まると出てくる。最後は掛け合いだ。そして一緒に終わる」

(本当だ。楽譜ってこうしてみると、面白い。……音はよくわからないけれど)

「なかなか面白い構成だよ。早く歌で聞いてみたいものだね」

 曉は目を輝かせているが、七音にはちっともわからない。

「助奏とは言え、主役の引き立て役。七音の立ち回りがキーになるよ。さ、練習を始めようか」

(プレッシャーだ……)

 ピアノを弾き始める彼の横顔を見て、七音は大きくため息を吐いた。

 七の女王とは幸運をもたらす存在であって、自分の実力で勝利に導くなどという話は聞いていない。これは困ったことになった、と七音は合唱部に入ったことを後悔していた。


 そして一週間が経過する。ソリストたち五人は、音楽室に集められていた。

「大丈夫だ。これならいける」と曉は言っていたが、練習室の小さい場所で二人で歌っているのとはわけが違う。心臓が口から飛び出しそうになった。

 並び順としては、七音、歌川、有馬、保志、獅子王になる。獅子王とは、端と端で随分と離れているのだ。彼が隣にいてくれたら、どんなにいいことか。七音は静かに椅子に座っていた。

 すると、隣にいた歌川の指先が震えていることに気がついた。

(そうだった。歌川先輩は、本番前に先生のメンテナンスを受けないとダメだって言っていたっけ)

 七音は「あの」と声をかけた。すると、歌川はぶっきらぼうに「なに?」と一瞥をくれた。

「ええ、え、っと。えっと。き、緊張……」

「なに。おれが緊張しているって言いたいの?」

(ひいいい。怒らせた? 怒らせた!)

 七音は必死に首を横に振った。

「ぼ、ぼ、僕が。き、緊張して、いるんですっ、て、言いたかったんです」

 すると、歌川は「ふ」と笑った。

「なにそれ。緊張するでしょう、普通。わざわざおれに言わないで」

「す、すみ、ません……」

(ああ。やっちゃった。トンチンカンなこと、しっちゃったよー)

 七音は泣きたくなった。けれど。歌川は先ほどまでの面持ちとは打って変わって、微笑を浮かべていた。

「そうだよね。1年生のお前のほうが緊張するに決まっている。悪かった。配慮してやれなくて」

「そう、いうのでは、なくて。ただ……。あ、足。引っ張らないかって。し、心配で」

「足を引っ張る?」と歌川は目を見開く。それから「冗談は言わないで」と言った。

「七音の声。いつも聞いているよ。合唱中だって、よく耳に入る。おれのほうが負けないように歌わないと。主旋律メロディ助奏オブリガートに食われていられないからね」

(そんなつもりは……)

 歌川と張り合うつもりはないのだ。どうやら誤解されたのかもしれないと、心配になったが、彼は笑みを見せる。

主旋律メロディ助奏オブリガートは対になる存在だ。遠慮しないで歌えばいい。おれが合わせてみせる」

「せ、先輩……」

 彼の視線はまっすぐに七音を見ていた。

 ——歌姫。

 そう思った。彼は、歌うことが好きなのだ。いつまでも逃げ腰では歌川に対して失礼だ、と思った。

(僕も歌う。全力で。曉が「大丈夫」って言ってくれたんだもの。大丈夫。それに)

 直列に並んでいるおかげで、獅子王の姿はよく見えないが、どうやら彼は、七音を心配しているようで、顔を出したり引っ込めたりしているようだった。

(先輩もいる。大丈夫)

 手を軽く握りしめてから「よし」と呟くと、音楽室の扉が開かれた。北部の登場である。彼は上機嫌そうに満面の笑みを浮かべていた。

「どれどれ」

 そこにいた全員が「はい」と返事をした後に、立ち上がる。七音もドキドキする心臓を、必死に押し込めながら北部を見た。

 北部はグランドピアノの前に腰を下ろすと、和音を奏でる。

「さあ、どうぞ」

 彼の軽い振りに合わせ、伴奏パートの下三つが和音を響かせた。美しいハーモニーだった。いつもはたくさんの人間で歌っているため、多少、雑音が混ざることがある。しかし、今は各パート一人ずつしかいない。

 耳を澄ませると、三者は、細心の注意を払っていることに気がついた。

 低音の獅子王が、重厚感ある歌声で下支えをし、その上に有馬のテノールが美しく響く。中間を担当する保志は控えめに。二人の間を取り持っているようだ。

 そしてすぐに。その和音に滑るように走る旋律。歌川だ。彼の声は遠くまで届くような美しい響きがある。しかし、それは和音の響きを崩すことはない。すっかりとそれに融合し、ゆったりとした悲壮感漂う旋律が音楽室中に溢れた。

(よし。僕の番)

 七音のパートは、歌川の旋律を追いかけるように始まる。他のパートと比べると、断然に音の数が多い。

 ——転がるな。テンポに溶け込め。

 曉のアドバイスが耳に響く。

 ——だが、消えることは許されない。主旋律に絡ませろ。歌川先輩の呼吸を見るんだ。歌川先輩を超えてはいけない。先輩の響きをよく聞いて。

(歌川先輩を見る)

 七音は視線を遣った。彼がどこで息を継いでいるのか。最初はよくわからなかった。けれども、それは感覚で理解する。

(そっか。ここで先輩は息継ぎするんだ。だから、僕はそこを補う。そして、先輩の響きに近づける)

 二人の歌声は、時には掛け合いのように。それぞれを主張する。また、時には光と影——。

 曉がからだで教えてくれたことが、今初めて理解できた。

 余韻を残し、演奏が終わる。北部は終始目を閉じて聞いていたが、終わった瞬間、軽く拍手をした。

「いい感じに仕上がったみたいだね」

「じゃあ……」と保志が目を輝かせて北部を見た。しかし、彼は苦笑いをする。

「けど、まだまだ、だね」

 保志は練習はこれで終わりだとでも思ったのだろうか。がっくりと肩を落とした。

「よし。音取りはできているようだから。もう少し練習しましょう」

 ほっとしたのも束の間、とはこのことだ。七音はため息を吐いた。しかし。隣にいた歌川が言った。

「気持ちよかった。お前の助奏オブリガート。歌いやすいよ」

(本当!?)

 七音は嬉しくなって、目を見開いた。

「そんな嬉しそうな顔しないで」

「だ、だ、だって……」

「本番。楽しみだね」

 歌川の指先の震えは止まっていた。七音は嬉しい気持ちになる。自分の歌が、少しでも人のためになった。それだけで嬉しいのだ。

 なにもできないと思っていた。楽譜も読めない。その他大勢としても、力になるどころか、足を引っ張るかもしれない。そう危惧していたのだが。

(合唱部、できるかもしれない。少しでも力になりたい。獅子王先輩のために)

 七音は獅子王を見る。彼もまた、七音を見ていた。二人は視線を交わした。そこに言葉はないけれど。確かに互いを思う気持ちが通じた気がした。しかし。

「おいおい。獅子王と七音。いちゃつくのは終わってからにしてもらえないかな」

 北部は笑う。獅子王は敬礼をしてみせた。

「すみません。先生! いちゃつきは終わってからにいたします」

「そうしてくれ」

 二人のやり取りに、有馬や保志からも笑いが起きた。

(は、は、恥ずかしいいい!)

 七音は頭のてっぺんまで熱くなるのを感じた。



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