第5章 悪夢と愛と

第26話 白羽の矢


 定期演奏会の興奮覚めやらぬ二日後。練習が再開された部員たちは、北部に召集されて、音楽室に座っていた。

 北部は楽譜が印刷されている紙を部員たちに配りながら言った。

「定期演奏会はお疲れ様。今年は例年になく大盛況でした。君たちも楽しいステージになったんじゃないかな? けれど、いつまでもその余韻に浸ってばかりはいられません。ここからはコンクール目指して気持ちを切り替えてもらわないとね」

 楽譜が隣から回ってきたので、七音も一枚抜き取ると、隣にいる優に手渡した。どうせ見てもわからないのだ。七音はもらった楽譜をただ手に持ったまま、北部を見上げていた。

 しかし隣にいた優たちからはざわめきが起きる。いったい北部はなにをしようとしているのだろうか。

「今回、自由曲はGloriaグロリアに決めようと思います。そこで、なんだけど。神崎先生に頼んでね。途中にある歌川の独唱ソロ部分を五重奏にすることにしました」

 音楽室内が騒然となる。しかし、北部は笑みを見せたままだ。

「本来であれば、オーディションをしたいところですが、もう時間がないので、悪いけど、僕の独断と偏見でメンバーは決めさせてもらいました。トップは歌川のままで。セカンドは有馬。バリトンは保志。そしてベースは獅子王。つまりは、各パートのパートマスターにお願いすることにします」

(先輩たちは、すっごくうまい。ソロなんて朝飯前)

 先日の定期演奏会。三年生たちはミュージカルステージで見事に独唱ソロをこなしていた。獅子王は、親指姫への切ない恋心を歌った。初めて聞く獅子王の歌声に、七音は胸がじんと熱くなったのを思い出す。その時のことを思い出し、口元を緩める。

 しかし、音楽室は騒然としたままだ。七音は不思議に思い周囲を見渡した。選ばれた彼らにとったら、大したこともない話だろうに。まだなにか問題でもあるというのか。七音は隣に座っている優に視線を向けた。すると、彼は困惑したような表情を浮かべて、「カウンターは誰がやるんだろう?」と言った。七音にはなんのことやらさっぱり理解できない。

「か、カウンター、って?」

「トップテナーの上の音域だよ。ファルセットって言って、裏声で歌うんだ。女声に近い音域だからね。歌える人は限られる。三年生でカウンター歌える人いたっけ? 歌川先輩はトップ歌うし。もう一人のソリストは誰になるんだろう」

「もう、一人……」

(確かに。五重奏って言っていた。もう一人、誰かが入るんだ)

 すると比佐が「先生、カウンターはどうするんっすか?」と手を上げる。他の部員たちも、互いに顔を見合わせて「そうだ、そうだ」と加勢した。北部は「そのことなんだけどね」と眼鏡を押し上げると、ふと七音を見下ろした。

「やってみるかい? 七音」

「へ!?」

 七音は素っ頓狂な声を上げる。そこにいる誰もが驚きの表情で七音を見ていた。

「先生! 一年生には荷が重すぎるんじゃないっすか」

 比佐が不満気な声を上げるが、北部は首を横に振った。

「僕は、天下を取りに行くつもりだ。僕に残された時間は、そう長くはない。——出し惜しみはしたくはないんだよ」

 北部の有無を言わせぬ雰囲気に、比佐は黙り込んだ。北部は指揮台に立つと、その雰囲気が一変する男だ。至上の音楽への探求は誰よりも貪欲。妥協を許すことはない。それは定期演奏会を共に経験し、七音も理解していたことだった。

 彼は誰にも文句は言わせない、という視線で音楽室内を見渡した後、七音に視線を戻した。

「そうだね。どうやら言い方を間違えたようだ」

 北部は静かに七音を見下ろしながら「君がやりなさい、っていうことだ」と言った。

 七音は周囲を見渡す。そこにいる誰もが、北部のその圧力に異論を唱えることなどできるはずもない。ただじっと七音を見返していた。優が頷く。それから、曉が「おれが教えてやるから。やってみろ」と言った。

「あ、曉……」

 曉は頷いて見せた。

「先生。おれが教えてもいいんですよね」

「もちろん。君は七音の専属コーチだもんね」

「よし」

 曉は大きく頷いた。北部は不意に表情を緩めてからニッコリと笑った。

「よし。話はついた。そんなに難しいパートじゃないと思うから。一週間後に合わせてみるから。それまで各自練習をしておくように」

 北部はいつもの調子で、音楽室を出ていった。

(これは。大変なことになったー!)

 七音は体育座りをしたまま固まっていた。

「カウンターは資質が必要だから。誰でもできるってわけじゃない。仕方ない。諦めて、練習することだね。北部は言い出したら聞かないから」

 歌川にそう言い渡された七音は、余計に動けなくなってしまった。



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