第23話 水底の女王


「友達、誘って観に行くね」

 家に帰ると、奏がそう言った。

梅高うめこう合唱部の定演はさ。人気高いのよ。チケット寄越しな。どうせ余っているんでしょう? 私が売り捌いてきてあげようぞ」

 奏は右手を差し出した。

 高校生になると定期演奏会の開催運営費は、自分たちでも調達することになる。パンフレットに載せる広告取りもパートごとに割り振られる。景気のいい時代は簡単に広告掲載に協力をしてくれた企業が多かったそうだが、今はわけが違う。広告を依頼するのも一苦労だ。

 先日も先輩から渡されたリストに載っている企業を回った。渋られる場面もあったが、おしゃべりな優のおかげで、なんとか広告をもらってきたトップテナーの一年生たちだ。

 チケット販売も部員が担う。一枚500円のチケットを10枚を売るのだ。優や曉たちはすでに売り切ったと言っていた。中学校の同級生で合唱経験者も多い。買ってくれる人がいるのだろう。

 それに引き換え七音は。友人が一人もいないのだ。売るとしたら家族に売るしかない。売れなかった分は自分で負担するしかない。

「あのさ。うちの高校で欲しいって子、結構いるけど、回ってこないのよ。あんたたちは、知り合いにばっかり売りまくるでしょう?」

 二人の会話を聞いていた母親が呆れた声を上げる。

「奏。高値で売りつけるんじゃないでしょうね? そして、差額を自分の懐に……」

「そ、そんな汚いことはしないって。大丈夫。品行方正な女子高校生ですから。ちゃんと正規の値段で売って、かずに返しますよ」

「信用ならないわよねえ」

「信用してよ。可愛い弟のためじゃないの」

 彼女はニコッと笑みを見せる。どうせ七音が持っていても売れないのだ。彼女に託すのがいいだろう。七音はそう判断をしてチケットを手渡す。しかし母親が「ちょっと待って」と間に割り込んできた。

「我が家の分は私が買います。お父さんと、お母さんと」

「え……。く、来るの?」

「当然でしょう? 七ちゃんの初舞台だもんね」

(あのメイド服を見られるの?)

 七音は頭のてっぺんまで熱くなった。

「なに赤くなってんのよ? あ、わかった。あんた。恒例の女装するのね?」

「女装? やだ。かずちゃんが女装?」

 母親は「ぶー」と豪快に吹き出した。

(笑われたー!)

「お母さん知らないの? 男子校のお約束は女装よ、女装」

「えー。やだ。ちょっと、……見たい」

(見たいって思うの!?)

「お父さん、大丈夫かな。七の女装見て、ショック受けないかしら」

(父さんも梅沢の合唱部だったって。まさか女装してないよね……)

「あら。お父さんだって、忘年会には仮装しているもの。大丈夫よ」

「お堅く見えて、外ではそんなことしてるの? やだ。初耳」

「お父さんの仮装は気合入っているからね。いつも大好評なの。12月になると、みんな『篠原先生はどんな格好するのかな?』って聞いてくるらしいわよ」

「へえー」

 女子二人が盛り上がっているのを横目に、七音は階段を上って自室に入る。胃のあたりがキリキリと痛んだ。

(これが緊張。不安。ストレス性の胃炎ってやつ?)

 今までこんなに緊張をする場面に遭遇したことはない。人前に出ると言うことを極端に避けてきたからだ。ストレスがからだに現れるのは初めてのことで、七音は戸惑ってしまっていた。

 階下から響く女性陣の笑い声。複雑な気持ちになるけれど。

(みんなが楽しそうだから、いいのかもしれない)

 七音は小さく頷くと、制服を脱ぎ始めた。


 定期演奏会は、学校から自転車で10分の距離にある市内の音楽ホールだった。パイプオルガンを兼ね備え、響きも長いホールは、どちらかといえば室内楽や合唱向きのホールだ、と曉が教えてくれた。七音は、朝から緊張していた。

 開演は午後1時半だが、部員たちは9時に会場入りをし、午前中はステージ上での最終調整を行うことになっていた。

 お弁当を持たされて「女装、気張ってきなさいよ」と母親に送り出された。知らない人に聞いてもらうよりも、知っている人が来るということのほうが緊張するものだ、と思った。

「おれたちはその他大勢だから。そんなに気にすることないんだって」

 緊張で、からだが硬い七音の背中を、優が笑いながらバシバシと叩いてくる。

 優や曉たち、経験者組は大して緊張していない様子だ。

「いつも通り歌え」

 曉は両腕を組むと偉そうに言った。七音と陽斗は顔を見合わせるが、不安しかない。

「お前たち。集まったなら、さっさとステージに上がれ」

 定期演奏会の仕切り役である有馬の声に、ホワイエに集合していた一年生たちはホール内に足を踏み入れた。

 そこは、七音にとったら初めての場所だ。姉のピアノの発表会は、近所の公民館で開催するのが常だった。だから、こんな立派なホールに来たことなどなかったのだ。

 日中であるというのに、中は薄暗い。琥珀色のツヤツヤとしたステージの床板が、照明に照らされて輝いていた。

(すごい! 芸能人みたい!)

 ステージ上では、すでに上級生たちが忙しそうに動き回っていた。舞台、楽屋、受付の準備。そのすべてを部員たちで賄うのだ。実際に演奏が始まると、身動きが取れないため、管弦楽部員が手伝いに来てくれる予定だが、彼らが来るのはまだまだ後の話だ。

「ほら。七音も。おいで」

 優に声をかけられて、慌ててステージへの階段を上がる。それから、ふと客席を見上げた瞬間。七音は息を飲んだ。

(なんて景色なんだ)

 千席あるという客席は、七音の前に迫り来るように並んでいた。壁面は深い藍色で塗られ、そこはまるで——。

(水の底にいるみたい)

 なんという不思議な空間だろうか。日常であるはずなのに、非日常のような感覚。これがステージ。本番は、ここにたくさんの客が入り、自分たちの演奏を聴くのか。

(その中で。僕は歌うの?)

 理由もなく膝が震えた。ただ。畏怖の念が、七音の胸を支配していた。周囲の音が。なにも聞こえなくなった。たった一人でこの水底にいるみたいに。しんと静まり返ったステージに立ち尽くし、七音は息を潜めた。

「——ね……」

(ここはまるで別世界だ)

「七——音!」

 耳元で大きな声が響いて、たちまち現実に引き戻される。目を瞬かせてから振り返ると、そこには獅子王がいた。

「大丈夫か。緊張しているようだが」

「あ、あ……」

 七音は目元を熱くし、ただ俯いた。なんだか恥ずかしかった。しかし、獅子王の優しい声が頭の上から降ってきた。

「致し方あるまい。お前の初ステージだ。緊張しないほうがおかしい」

 七音は小さく頷き、それからそっと獅子王を見上げた。彼はまるで王だ。このステージを支配する王様のように堂々とそこに立っていた。しっかりと握られた腕から、獅子王の熱が感じられる。

「このホールは残響時間が長くてな」

「ざ、残響、じ、時間?」

「そう。響きが残る時間だ。ほら」

 彼は手を打ち鳴らす。するとその音は、壁を伝わり、あっという間に天井まで鳴り渡った。その時間の長いこと。いつまでも耳にその音が響いてくる。

「風呂で歌っているの一緒だ」

(確かに)

 最近。七音は風呂場で歌の練習をする。そのおかげで、よく奏に「うるさい」と怒られているのを思い出した。

「ここはまさしく風呂場だ。だから、歌うと気分がいい。このホールを知っている声楽家は、みんなここで歌いたいと願う。設計に携わった人が、声楽関係の有力者だったおかげで、かなり偏った造りになっているそうだ」

 獅子王は口元を緩めると、にっこりと笑って七音を見下ろした。

「県大会の会場もここになる。今日は予行練習だと思えばいい。緊張してもいいが、お前にはステージを楽しんでもらいたいと思っている」

 七音は再びホールに視線を巡らせた。

(お風呂——。ちょっと特大のお風呂だけど。うん。悪くない)

「お、お風呂。わ、わかりました」

「今度は本当の風呂に一緒に入りたいな」

「お、お背中。お、お、お流し、いたし、ます」

 七音は頭を下げる。獅子王は「そういうんじゃないんだけど、ま、いっか」と言って笑った。

 獅子王と話をしたら、緊張は小さく縮んでしまったようだ。

(先輩といると、心が『嬉しい』って言っている)

「さあ、ゲネプロだ。頑張ろう。七音」

 獅子王に手を引かれ、七音は水底のステージの中心に歩き出した。





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