第22話 騎士の問い


 定期演奏会の練習期間中。三年生たちは帰宅が遅くなる。メインキャストの練習だったり、運営の打ち合わせだったりが多いのだ。

 優たちを見送って、七音は一人で音楽室に座っていた。「おれが遅いときは先に帰れ」と言っていた獅子王だが、七音が遅いときは、いつまでも待っていてくれる人だ。「待っていたぞ」と、あの輝くような笑みを見つけると、とても嬉しい気持ちになる。

(だから。僕も待っています)

 窓際に片付けられているパイプ椅子を引っ張り出し、そこに腰掛けると、定期演奏会で歌うポピュラー曲の楽譜を広げる。

 西の空から差し込む橙色の光は、まるで燃えているようだった。開け放たれた窓から吹き込むは熱風。外の気温は高いままのようだった。

 結局——。「見てもわからないんだった」と呟いて、楽譜を閉じた瞬間。「女王陛下」と肩をポンと叩かれた。あまりに驚いた七音は悲鳴を上げて、立ち上がった瞬間。バランスを崩して床に滑り落ちた。

「おいおい。そんなに驚くことないだろう?」

 頭上からのぞき込むのは比佐。七音はほっとして息を吐いた。比佐は「はい」と手を差し出す。

「大丈夫? 怪我しなかったか?」

 打ちつけた腰が少々痛いような気もするが、大したことではない。七音は首を横に振ってから、比佐の手を取った。

「す、すみません」

「いや、こちらこそ。驚かせたみたいだ。獅子王先輩待ち?」

 椅子に座ると比佐もパイプ椅子に腰かけた。なにか用事でもあるのかと彼を見返すが、彼はただ七音を見ているばかりだ。

「あ、あの……なにか……」

「いやあ。あのさ。確か花見の時に、おれと会っているって言ってたよね。それがどこだったのかなーって、考えているんだけど。思い出せなくてさ」

 比佐は組んだ足に肘をついてその手を頬にあてた。完全に七音を観察する姿勢だ。

 七音はなんだか恥ずかしい気持ちになって、視線を逸らす。しかし、気になってまた戻すと、比佐の視線とぶつかる。それの繰り返し。なんだか、どうしたらいいのかわからなくなってしまった。

「そん、なに。見られると……」

「恥ずかしいの? 七音って可愛いね。獅子王先輩が夢中になるわけだ」

 言葉に窮し、じっと俯いていると再び比佐が問う。

「どこで会っているんだっけ。おれたち」

 七音の手のひらに比佐の背中の感触がよみがえった。

(あの時。あの時だけど……でも)

 七音は首を横に振った。

「ぼ、僕の。勘違い、です」

「え!」と目を見開いた比佐は残念そうに両手を打ち鳴らした。

「そっか。そうなの? 勘違いだった? 変だなあ。こんないい男捕まえて、勘違い? あ、もしかして新手のナンパ?」

「ち、違います。本当に、勘違いっていうか。す、すみません。わ、忘れてください」

「お前ってさ。本当に変なやつ。天然なの? それ……」

 比佐は笑った。だが。その笑いは長くは続かない。彼はじっと押し黙ってしまったのだ。沈黙だった。いつも饒舌で、人を笑わせてばかりいる比佐が。押し黙っていた。その顔は、どこか翳りが見えた。

(先輩?)

 七音には、彼がなにを考えているのかさっぱりわからなかった。自分も黙ったまま比佐を見つめていた。すると、比佐が「あのさ」と低い声を上げた。

「あのさ。獅子王先輩が七音を好きなのはよくわかる。溺愛ぶり、すごいもんな。けどさ。お前はどうよ?」

(僕?)

「お前は——。本当に獅子王先輩でいいの?」

 まるで暗い夜の淵に漂う、ぼんやりとした光が、比佐の目に宿っているように見える。七音は思わずその光に見入ってしまった。そうだ。暗闇の中、光に群がる虫のように……。

(僕は。僕は……獅子王先輩が……好きなんだ。僕は、獅子王先輩が……)

 そう問われると、言葉に詰まった。「好き」がわからない。比佐への思いが「好き」ならば、獅子王への思いはその「好き」とは違う気がする。

 ——好き?

 ——大切?

 ——一緒にいたい?

 ——安心感……。

 どれが好きで、どれが好きにならないのか。心の中がごちゃごちゃになっている。それはそもそも感じていたこと。

(本当に、僕は獅子王先輩が好き……なのだろうか)

 唇の感触。

 あの時。自分はどう思った?

(恥ずかしいだけ? 違う? どう思った? ううん。どう思ったかじゃない。

 獅子王の熱に焦がされた体が疼く。七音はそっと比佐を見つめた。

「僕は……。獅子王先輩が……。す、好きです」

 比佐は反対にじっと七音を見返していたが、しばらく何かを考えた後、「そうか」と言った。比佐は「それならいいんだ」と言った。それからもう一度。「それならいいんだ——」と。

(先輩はなにが言いたいの?)

「そろそろ先輩たちも終わると思う。戸締りしておけ」

 比佐は不意に明るい調子で手を叩いた。はったとして目を瞬かせると、比佐はいつもの比佐だった。彼は腰を上げる。

「おれは先に帰るわ。こんなところ、獅子王先輩に見つかったらげんこつだ」

「げんこつ……」

(そういえば。演劇部長の鎌田先輩が。獅子王先輩は狼藉者だって言っていた。でも、僕は出会ってから、そんなところを見たことないんだけれど……)

「し、獅子王先輩。去年。他校の生徒と喧嘩って……」

 比佐は「ああ、あれ」と言った。

「去年、大会で歌川先輩が他校の男子生徒に絡まれたんだよ。美人じゃん。あの人。だから。獅子王先輩。頭にきて。ついね。でも手は出さなかった。っていうか出そうとしたけれど。結局は有馬先輩が間に入ったから、拳が相手に届かなかっただけだけどね」

(そうか。やっぱり理由がある)

「先輩は昔からそうだ。情に厚くて仲間思い。おれも小さい頃から、よく庇ってもらったっけ」

(獅子王先輩と、比佐先輩は昔からの知り合いなの?)

 驚いた。まるで正反対の二人なのに。二人は、自分が出会う前よりもずっと昔から、同じ時間を共有してきたのだろう。

「ほら。おれは、昔からこんな調子だからね。喧嘩吹っ掛けられるんだよ。そうすると、いっつも獅子王先輩がね。おれを守ってくれたんだ。だから、おれ。あの人には頭が上がらない。なのに。おれは本当に嫌な奴でさ。すぐに獅子王先輩を怒らせる」

(怒らせる?)

 比佐はどこか遠くを見るような目を見せたかと思うと、すぐにいつもの笑みを見せた。

「行かなくちゃ。じゃあね」

 いつもの調子で手を振った比佐は、さっさと音楽室から姿を消した。まるで狐につままれたみたいにそこに座っていると、比佐が出て行った扉から獅子王が、入れ違いのように顔を出す。

「やはりいたか。すまなかった。待たせたな」

 真夏の太陽のように神々しい笑顔を見せる獅子王を見つけると、不安な気持ちがいっぺんに吹き飛ぶようだ。七音は首を横に振ってから立ち上がる。なんだかほっとしたら涙が零れそうになる。

「どうした。なにかあったのか?」

 目元をごしごしと擦る七音の仕草に、獅子王は心配気に七音を見下ろしている。

「な、なにも……」

 獅子王は比佐が出ていった扉に視線をやった。獅子王には、比佐とのことを話している。彼には無用な心配を掛けさせたくはなかった。

 七音は黙って荷物を持ち上げた。獅子王も戸締りの確認をしてから、七音の元に戻ってきた。

「まったく。歌川がごねて演技をしないのだ。あれでは、本番が思いやられるな」

 獅子王の話を聞くのが好きだ。彼の声色は、七音の心に安寧をもたらしてくれる。七音はこの時間が好きだった。こうしてただ、獅子王のそばにいるだけの時間が。

「おいで」

 差し出された大きな手を握り返すと、すっとからだが引き寄せられた。何事かと思っていると、いつの間にか。七音の唇に獅子王の熱い唇がくっついた。

「せ、先輩。こ、こんなところで」

「いいだろう? 少しくらい」

「わ、わかりました。い、いいです……」

「本当に、いいの?」

 獅子王は笑った。七音も釣られて笑う。

「おれは万年発情期だぞ。許したら大変なことになる」

「……ど、どう答えれば、い、いいんですか」

「そうだな。返答に困るコメントだったな」

 二人は手を繋いで廊下を歩く。七音の心は嬉しい気持ちでいっぱいだった。このまま。獅子王の言葉を聞いていたい。この時間が続いて欲しい。そう願いながら。七音は帰途に就いた。






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