第4章 七の女王の悲運

第21話 女王の思い出


 夏休みに入った。獅子王の目に映る彼は、日に日に美しくなっていくような気がした。入学式の日。一年七組で見た時の彼は、ともかく俯いてばかりで、オロオロと視線を彷徨よわせ、庇護欲を刺激するようなタイプだった。けれど——。今ではすっかり同級生たちとも打ち解けて、笑顔を見ることが多くなった。

 夏休み明けの県大会を目指し、休み中は連日のように練習の日程が組まれていた。受験を控えている三年生は午前中に塾通いをし、午後は練習だ。運動部では、すでに引退している生徒たちもいる。そんな中、合唱部の活動は最後の最後まで続く。文武両道。部活ばかりにいそしんで、大学受験で泣くことなく、限られた時間のコントロールが必要なのだ。

 昼過ぎ。塾での勉強を終えた獅子王が音楽室に足を運ぶと、一年生が衣装合わせをしているところだった。

 7月の下旬。毎年、梅沢高校合唱部は定期演奏会を開催する。休憩時間を入れて、二時間程度の演奏会だ。その中で、ミュージカル仕立てのステージを行うのが通例だ。

 ミュージカルといっても、物語は台詞で進行し、途中にメインキャストの独唱ソロや、合唱が入る構成になっている。

 題材は童話や昔話など、誰もが知っているものが多い。メインキャストは三年生を中心に担うことになり、一年生たちはその他大勢の合唱団になるというものだった。

 入口から音楽室内の様子を眺めている歌川に「なんだ。これは?」と声をかける。彼は「メイドなんだって」と答えた。

「メイドって……」

 音楽室内は、異様な雰囲気が漂っている。一年生たちは、手渡された袋から出てくる衣装を眺めては、不平不満を述べている。

 今回のミュージカルを仕切っている有馬は、騒然としたその場で、珍しく大声を発していた。

「そこ! 勝手に衣装を交換するな。どっちにしろ恥ずかしい思いをするに決まっているのだ。往生際が悪いぞ。さっさと着ろ」

 有馬の指示で手伝いをしている2年生たちの姿もちらほらと見受けられた。

「ガチ? おれがこれ着るのか?」

「嘘だろう~。家族見に来るって言ってたのに」

「そんなこといったら、彼女だって来るんだ。くそ……」

 そんな声があちらこちらから上がっている。それにしても、一体、どこでこんな数のメイド服を集めてきたのだろうか。獅子王は愉快で仕方がない。

「誰の意見だ? 去年のポシェモンの着ぐるみのほうがマシだな」

「演劇部長の鎌田に演出をお願いしたのが間違いだったね」

 歌川も肩を竦めていた。

「あの変態コスプレくんの考えそうなことだよね。こんなの着ろって言われたら。おれ、退部しちゃうね」

「なに言ってんだか。お前はもっとすごいゴージャスなドレス、着るんだろう?」

「うるさいね。みんなで押しけたくせに」

「だって。お前以外いないだろう。親指姫は」

「うるさいな。カエルくん」

 歌川はむすっとした顔をして、視線を背けた。

 獅子王は肩を竦めると、さっそく七音の姿を探す。こういう集団に入ってしまうと、彼を見つけるのは至難の業だ。なにせ、小柄だし。なにせ静か。大騒ぎでもしてくれたらいいのに。黙々と言われたことをやっているに違いないのだ。

(こういう時は、鯨岡を探せば……おお、いたいた)

 優は予想通りキイキイと声を上げていた。そして、その隣には、七音の横顔が見えた。

「な……——なんたること……だっ」

 その瞬間。獅子王は思わず、そばの柱にしがみついた。歌川は呆れた顔をして獅子王を見上げていた。

「可愛いよ。七音は。一番似合っているかもね」

「ううう。なんて可愛さだ。ああ、なんて可愛いのだ……!」

 七音はみんなとは違った趣向のメイド服を身に着けていた。着物風ロングスカートのメイド服。肩には大きなひらひらの付いた白いエプロンがまぶしく光っている。

(ああ、なんといじらしいのだ。あの恥ずかしそうな上目遣いの瞳。くそー。ぎゅっと抱きしめたい!)

 獅子王は七音の代わりに、と柱を両腕で抱きしめる。柱がギシギシと軋んだ。

「やめろ。壊れる。この発情期め」

「くそー。なんとでも言え。おれは、いつでも発情期だ」

 二人の騒動に気がついたのか。七音が顔を上げた。獅子王の姿を確認した七音は、恥ずかしそうに頬を朱に染めた。

(きいいいい! 今すぐにでもかっさらいたい!)

「悪いが同じ服は用意できていない。みんな、方々に声をかけかき集めたものだ」

 有馬は眼鏡を押し上げて説明した。

(声をかけて、こんなに集まるものなのか?)

「だからサイズも限定される。なにも嫌がらせで選んでいるわけではない。サイズを基準に割り振っているだけだ。だから、勝手に交換されると着用が困難になる場合がある。それを理解してくれ。それでは、この衣装で歌えるように慣れておく必要があるから。来週の本番までには、何度か着用してもらう。くれぐれも破いたり、汚したりしないように。困ったことが起きたら、隠すことなくすぐに報告してくれ。以上——」

 有馬は1年生たちに言い渡すと、くるりと向きを変えて獅子王たちのところに来た。

「ほら、なにぼさっとしている。次は3年生の衣装合わせだ。楽しみだな。歌川」

 にやっと笑みを見せる有馬を睨みつけて、歌川はぷいっと踵を返した。

 ミュージカルステージは、特に女子高生たちの間では評判が高く、それを目当てに来る客も多い。そのため、演劇部の助力を得て、ステージ運営を行っているほどの力の入れようだ。

「女装を見せておけば、間違いないからな」

 有馬は両腕を組んで偉そうに言い切った。しかし——。獅子王は一年生たちの様子を見つめる。

(七音は別として、目も当てられない奴が多い。本当に女装が喜ばれるのだろうか)

「ほら行くぞ。カエル」

「お、おう」

 カエル役の獅子王は七音を名残惜しそうに振り返る。たくさんいる人の中。やっと見つけた彼だ。いつまでもその姿を目に焼きつけておきたい。そう思ったのだ——。


「あーあ。獅子王先輩行っちゃったね」

 海老色のシックなメイド服を纏った優が茶化すそうに言った。

(変だったかな。僕……)

 七音は自分の恰好を見渡した。こんな格好をしたことなどない。

「これで人前に出るって。無理だ。無理。絶対に無理!」

 隣では、曉が落胆していた。彼は漆黒のロングスカートのメイド服をまとっている。七音は「可愛いと思うけど」と呟く。すると曉はすかさず悲鳴を上げた。

「可愛い、言うなよ! お、お前はいいさ。に、似合っているからな! か、可愛すぎるだろうがよう」

 彼は耳まで真っ赤にして七音を指さした。彼がなにを言いたいのか、七音にはさっぱりわからない。隣にいた陽斗は「素直になればいいのに」と言っていた。

(そうかな。みんな可愛い。優も、曉も、陽斗も。みんな可愛い)

 七音は周囲を見渡した。すると、サイズの確認をして歩いている比佐と視線がぶつかった。彼は七音の元にやってくる。

「サイズ、大丈夫か——。お前は、いい感じに仕上がったな」

 彼はじっと七音を見つめていた。その視線の意味が。七音にはわからない。ただ黙って俯いた。比佐の顔を見ていると、ほろ苦い思いが胸を駆け巡る。

 はったとして顔を上げると、比佐の鳶色の瞳が、すぐ近くに見えた。鼻先がぶつかる至近距離に、心臓が跳ね上がる。

 比佐という人物には弱い。なにせ梅沢高校に入学する動機となった人物だ。彼は特別。そう。優たちとは違って特別な存在なのだから。

 いつも詰まっている言葉が、余計に詰まる。隣では陽斗が「うお、うお」と騒いでいる声が聞こえてくる。七音は我に返った。

(そうだった。陽斗がピンチ)

「せ、先輩! 陽斗の後ろの、ファ、ファスナーが、閉まりません」

 七音は比佐を押し返す。隣にいる陽斗は「そうなんです。そうなんです」と叫んだ。

 比佐は陽斗を眺めてから軽くため息を吐く。

「なんだ。早く言わないと。多少は予備があるから。どれ、サイズ見てみるから。おいで」

 比佐は陽斗を連れて人込みに紛れていった。その後ろ姿を見送っていると、優が「大丈夫?」と言った。七音は「うん」と答える。

(そう。いいんだ。僕は。いいの。もう。だって。僕には、獅子王先輩っていう大事な人がいるんだから——)

 思い出ははキラキラしたまま胸にしまっておこう。七音はそう思っていた。今はただ。獅子王とのことだけを考えたいのだ。七音は、不思議と悲しくなどなかった。






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