第20話 王と騎士
獅子王は、準備室で自由曲の楽譜を眺めていた。今年は、地元を中心に活躍している新進気鋭の作曲家、神崎奈々作の委嘱楽曲。北部とはどういう繋がりを持っているのか。コンクールで未出版の曲を取り扱うというのは強豪校にはよくあることだ。自分たちの持ち味を最大限に活かした曲を作ってもらえると言う利点があるからだ。
(あの狸。本当に食えない男だ)——というのが、獅子王の北部への印象。
自由曲の時間制限は6分半。コンクールでは時間が命。1秒でも超過した場合は、審査対象外。つまりは失格ということになる。
ミサ曲集は、
つまり、コンクールでステージに上げるのは、この二曲のどちらか。最終的には出来上がりを見て、曲を決めると言っていた北部。どちらにせよ、タイムオーバーのリスクはつき纏う。
長い曲の場合、途中カットをすることを許可されているものの、北部は「そんなのもったいないじゃない?」と言っていた。
(リスクが高いな。神崎先生が想定しているよりも、アップテンポでいかないと。あっという間に失格だ)
楽譜を閉じ、大きくため息を吐くと、「おや来ていたのかい」と北部の声が聞こえた。獅子王は先日の腹立たしさを思い出し、無言で北部を見返した。すると、彼は「先日のこと、怒っているんだろう?」と手をヒラヒラとさせながら、自分の席に腰を下ろした。それから、そばに重ねられている紙コップにインスタントコーヒーを入れた。
「怒っています」
「でも、結果的に七音は実力を発揮したし。一年生の結束が強まったじゃない」
「それは、結果論です」
紙コップにお湯を注ぎ、北部は一つを獅子王に手渡した。
「甘くないと飲めません」
北部は「本当にお前は面白いね」と言って笑った。
「獅子王。恋とは難しいものだね」
北部は砂糖スティックを差し出す。獅子王はそこから砂糖を五本を抜き取った。
「難しいです。歌川にも怒られたんです。『信じてやれ』って。けど、ああいう場面を目の当たりにしてしまうと、どうしても止めたくなります。あいつが、敗けてしまうんじゃないかって、心配になって……」
獅子王は砂糖を入れる手を止めた。
(おれは……)
胸が痛む。
「おれは、ただ……」
獅子王は次の砂糖の封を切った。北部はコーヒーを一口含むと、「わかるよ、気持ちはね」と笑った。
「僕だって、大事な人が危機に瀕したら、居ても立っても居られないだろうね。けれど、それは『守りたい側』の思いらしいよ。歌は『信じろ』と言ったんだろう? それは『守られる側』の思いだね」
「守る側と守られる側……。おれは七音を庇護したいと思っていました。けれど。それはおれの驕りなのかも知れません。あいつは、おれなんかに守られなくても、立派に合唱部員としての一歩を踏み出しました」
北部は目を細めて笑った。
「守るとか、守られるとか。そんな議論はナンセンスだね。時には相手を信じて、じっと我慢するということも必要なのかも知れない。それが愛というものなのかも知れないね。まあ、お前も、もう少し大人になれば、堪えられるんじゃないかな。お前はまだ若いからね」
「じゃあ、先生は堪えられますか」
「無理かも知れないね」
二人は顔を見合わせて笑った。
「僕は堪え性がないからね」
北部はコーヒーを一口含むと、にっこりと笑みを見せた。
「——差し出た真似をしたようです。すみませんでした」
コーヒーは苦みと甘みが入り混じっている。あまり美味しい飲み物だとは思えない。しかし。北部は幸せそうに目を細めていた。
「でも。ちょっと今回の件は僕も反省しているんだ。歌に怒られたよ。すぐに無茶なことをしでかすって。僕は言葉が足りないそうだ。もっとちゃんと説明すれば、獅子王だって怒らなかったはずだよって。すまなかったね。獅子王。お前には嫌な思いをさせた。けどね。あの子は歌えるよ」
獅子王を見据えたその目は、本気の色をしていた。音楽家の北部の目——。
「最初。彼の歌声を聞いた時。驚いたよ。初心者だって聞いていたからね。正直、期待はしていなかったんだけど。澄んだ透明感のある声だった。細いけれど、突き抜けて響く。あれは、カウンターテナーで行けそうだ。けれど、残念なことに、音楽はど素人だ。楽譜を見せたけど、ちんぷんかんぷんだしね。ただ一つ、耳がいい。喋らない分、周囲の音をよく聞く癖がついたのかもしれないね。僕が歌った旋律を、一度ですぐに覚えたからね。だから、今回も大丈夫だと思ったよ」
「それで矢吹が先攻だったんですね」
「そういうことだね。七音のお手本として、矢吹は逸材だ」
獅子王は大きくため息を吐いた。
「お前が思っているほど柔な子じゃないと思うよ。あの子。——今度の自由曲。神崎先生に相談して、少しいじろうかと思っている」
「また変更ですか?」
「どうせお前たち、ちゃんとついてこられるじゃない。平気でしょう? それよりもね。面白いことを考えるってワクワクすると思わないか?」
「だから——」
獅子王が声を上げると、準備室に比佐が顔を出した。
「お。二番乗りだね」
北部は目を細めて笑った。
「あ、いいな~。おれにも、コーヒーご馳走してくださいよ」
彼は満面の笑みを浮かべて、獅子王の隣に座った。今日はこれからいつものミーティングだ。北部がコーヒーを煎れているところを眺めていると、比佐がふと獅子王を肘で突いた。
「昨日の先輩。カッコ良かったっす」
「昨日?」
「ほら。決闘の時の……」
先ほど、北部から指摘されたばかりだ。獅子王は恥ずかしい気持ちになって、「その話はやめろ」と言った。「ありがとうございます」と、北部からコーヒーを受け取った比佐は「やめませんよ」と笑う。
「お前、揶揄うな。いくら幼馴染だとは言え。一応、おれは先輩なんだぞ」
「わかっていますって。だからこうして敬語使っているんじゃないっすか」
二人の会話に北部は目を細めた。
「お前たちは幼馴染なんだってね」
「そうなんです!」と比佐は獅子王の肩を叩いた。
「おれの憧れの人です」
「おいおい。持ち上げるな。昔からお前のほうが、頭はいいし。器量もいいし。それに要領もいい。おれのほうが面倒みてもらってきただろう?」
「そんなことなっすよ。好きな奴がピンチな時に、黙って指くわえてみているなんて、男のすることじゃないと思います。先輩はあいつのことを甘やかしているって言っている奴もいるけれど。おれはそうは思わないな」
「康郎……」
「好きな奴は全力で守らないと。ね? そうでしょう? 先生」
比佐は目を輝かせていた。ここまで言われてしまうと、さすがの獅子王も閉口してしまう。北部は愉快そうに笑っていた。
「先生はどうです? 甘やかす派ですか」
「僕は甘やかすね。とことん」
「おー! いいっすね。おれもそのタイプだな。おれが七音の恋人だったら、絶対に甘々にしてやるんですから」
「おい。なんでお前が七音の恋人になるんだよ!」
獅子王はむっとして比佐の首根っこを掴み上げた。
「この野郎! 絶対にちょっかい出すなよ! 昔からお前は、おれの好きになったものにちょっかいかけてくるからな!」
(くそ。七音はお前に失恋しているんだぞ! 余計なことされたら……)
——七音は康郎のものになってしまうかも知れない。
獅子王の胸に不安が生まれた。比佐は「違いますよ。わざとじゃないんですってば」と首を竦めていた。
(わかっている。お前がどれだけ、おれを慕ってくれているのかも。おれは知っている。康郎)
獅子王は比佐から手を離す。彼は両手で頭を抑えると、「すみません」と何度も頭を下げた。
「ただ、先輩が大事にしているのを見ると、なんかおれも欲しくなるっていうか」
「だからだ! 今回ばかりは本気で怒るぞ。いいな?」
「そうしたら決闘だね。二人の決闘は見物かも知れないね」
北部はニヤニヤと笑みを浮かべているが、獅子王はそれどころではなかった。
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