第19話 女王の微笑み

 

 トップテノールで揉めているということを知らせに来たのは比佐だった。獅子王は、後輩たちの指導を放り出し、廊下に駆け出す。

「またいつもの、ですけど。今日は派手で。 瑞樹がべっちを呼びに行っています」

 こうして駆けつけてみると、すでに北部は仲裁に入っているところだった。しかも、よりにもよって彼は、二人に決闘の提案をしていたのだ。

 獅子王は黙っていられなかった。部員たちをかき分けて、前に躍り出る。しかし。それは七音によって止められた。

 彼の目は獅子王を必死に見上げている。

(しかし。相手は附属中学校でソリストまで勤めていた矢吹曉だ。七音には分が悪すぎる)

 獅子王は首を横に振った。

「いいや。おれは反対だ。この勝負、受けるべきではない」

「でも——」

 だが、北部は「獅子王」と大きな声で彼の名を呼んだ。彼の声は、いつもの彼のそれとは違う。まるでその場の時間が止まってしまうかのような威圧感があった。獅子王ですら、足が竦むのがわかる。

「戦う前から、七音に敗北を認めさせるのかい? 獅子王」

 北部は先ほどとは一変し、お茶目な様子で笑う。獅子王は腹が立った。歯を食いしばり、北部を睨みつける。まるで一触即発の空気に、部員たちはただ黙り込んでそこに立ちすくんでいるようだった。しかし——。

「先生は黙っていたほうがいいよ」

 不意に歌川が声を上げた。緊張した空気が幾分緩む。北部はいつもの調子に戻ったかと思うと、「えー。そうかなあ」と呑気に首を傾げた。

「これは部員同士のことだから。顧問は引っ込んでいて。それにこの子たちはおれの管轄だから」

 歌川は二人の間に立つ。

「先生からの提案。どうする? 二人はどうしたい?」

 歌川は獅子王に一瞥をくれる。その目はあの時と一緒。

 ——獅子王。お願いだから、七音を信じてあげて。

(歌川。おれは、七音を信じているんだ。だけど……)

 ——黙ってみていてあげて。あの子は必ず大丈夫だから。

(わかっている。わかっている)

 目を閉じて、心の中の自分と問答をしていると、ふと腕に温かいものが触れた。はったとして視線を遣ると、七音の細い指が、自分の手に添えられていた。七音はしっかりとした視線を獅子王に向けたまま、小さく頷いた。

「七音……」

 彼は獅子王の声を遮るように、首を横に振ると、前に歩み出た。

「お、やる気だね?」

 北部は嬉しそうに笑う。七音は小さく頷いた。すると、部員たちから歓声が上がった。獅子王は諦めるしかない。不安な気持ちを押し込めるように、両腕を組んだ。

「では、矢吹から。どうぞ——」

 北部はそばにあったピアノで歌い出しの音を弾いた。

 曉は息を吸い込むと歌い始める。彼の歌声は、その見た目からは想像もできないほどに繊細。

 ——おお、大いなる神秘。

 彼は両手を広げ、音程を確実に取る。大きく開かれた口から、至上の音楽が紡ぎ出されて行く様に、その場の部員たちは、すっかり魅了されていた。

(くそ。上手すぎるだろう)

 獅子王は舌打ちをする。七音は敵であるというのに、目元を上気させて、すっかり曉の歌に魅了されてしまっているようだ。獅子王の苛立ちを理解しているのか、隣に立っている歌川が首を横に振った。

 曉の歌声が余韻を残して終わった。練習室に入りきれずに廊下にいた部員たちからも拍手が巻き起こった。

「さすがだな」

「一年生でこれだけ歌えるのか」

 曉を絶賛する声が耳に届く。目の前にいた曉は、そんな声にも耳を貸さずにただじっと七音を見ていた。「どうだ」と言わんばかりの視線。七音は、まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。

(そうだ。いい歌声は、人の心を動かす。七音。お前にもできるか。曉のように。いや、曉を超えていく必要があるぞ)

 次は自分の番だというのに、すっかり七音は曉の歌声に酔いしれてしまっているようで、ポヤポヤとしているようだ。獅子王はもう一度舌打ちをした。すると、北部が「さて。次は七音の番だね」と声を上げる。

 彼は果たして歌えるのだろうか——。

 七音は曉が歌った場所に立つと、目を閉じた。北部が最初の音を響かせる。その場に再び静寂が訪れたのだった。そこにいる誰もが、今か今かと七音の歌声を待ちわびているのがわかる。獅子王も同じ気持ちだ。七音の歌声を。獅子王は聞いたことがなかったからだ。

(お前はどんな声で啼く? 美しいさえずりを聞かせてくれるのか)

 七音の目が見開かれる。そして一度、大きく息を吸い込んだかと思うと、彼はその旋律を歌い始めた。

 その声は、優しく、そして透き通っていた。けれども、どこか不安な色も含む。

「七音……」

 O magnum mysterium.

 et admirabile sacramentum,

 眼の前に聖母マリアが見えた。彼女の起こす奇跡に人々は歓喜しながらも、畏敬の念を見せるのだ。

(ああ、七音。お前は……)

 楽譜が読めないとか、出来上がっていないとか。そんな噂はまるで嘘のように七音は堂々と、人々の前で歌い上げたのだ。

 最後の一音を、大切に伸ばし切った七音は、ほっと息を吐いた。それから、周囲を見渡すと、途端に顔を真っ赤にさせ、両手で口元を抑えた。

「ひいい! す、す、す、……す、すみま、せ、せん、でした!」

 目をぎゅっと瞑ってからしゃがみこんだ。しかし——。優が突然、七音の手を掴んだ。

「七音! すげえ! 歌えていた。すごい無茶苦茶歌えていたぞ!」

「へ? へ?」

 廊下からは歓声が上がる。

「ほらね。大丈夫でしょう?」

 隣にいる歌川が笑った。

「お前。知っていたのか」

「あの子。度胸だけはある。北部が認めた実力もある。おれは大丈夫だなって思ったよ」

「くそ。もっと詳しく言っとけよ」

 歌川は悪戯な笑みを見せる。

「獅子王。愛とは無条件じゃなくちゃ。理由なんていらないんだよ」

 歌川は踵を返すと、「終了だよ」と二人の元に歩いて行った。北部は「どうやって歌った?」と七音に声をかけた。

 北部に問われて、七音は曉を見る。

「あ、曉の。ま、真似をし、しました。じゃないと。僕、まだ。全然よく、わ、わかっていないから」

「やっぱりね」

 北部は曉を振り返った。彼は「なんです?」と表情を険しくした。

「おれの敗けって言いたいんですか」

「おや。敗けたって思ったの?」

「ち、違いますけど」

 彼は顔を真っ赤にしていた。北部はいつもの優しい笑みを浮かべてから、「じゃあ、こうしようか」と言った。

「七音は、楽譜で覚えるより、誰かに歌ってもらったものをそのまま覚えるタイプみたいだから。矢吹が教えてあげなさい。歌ってね」

「な! なんでおれが」

「君は音程がいい。リズムが多少遅れるようだけど、まあ、気を付ければ許容範囲。七音のお手本としてはぴったりの教則本くんだね」

「教則本?」

 優が吹き出す。

「おい、そこ! 笑ってんじゃねえ」

 曉は怒っているが、北部はお構いなしだ。

「いいコンビができたようだ」

 北部は手を打ち鳴らした。

「ほらほら。野次馬していないで。練習に戻りましょう。15分後に合奏します。新入生たちは来週から合奏に入れてあげるから。それまでに一人残らず譜読み終わらせること。以上。解散」

 北部は獅子王の肩をぽんと軽く叩くと、のろのろと廊下を歩いて姿を消した。

「くそ! なんで、おれが……」

 曉は面白くなさそうに文句を言っているが、そんなことはお構いなしだ。嫌そうにしている曉に、七音は頭を下げた。

「お、お願い、します」

「ほらほら。頭下げているよ」と優が茶化す。

「くそ! 哀れな小動物みたいな目しやがって。——ああ、わかったよ。わかった!」

 曉は「教えてやるよ」と言った。

「別にお前を認めた訳じゃねーぞ。足引っ張る奴がいると困るだけだからな」

 七音は嬉しそうに笑みを見せた。

「あ、ありがとう」

 すると、曉は顔を真っ赤にして「だから! そういう顔すんな!」と叫んだ。

(くそ。矢吹の奴。七音の魅力に惑わされているんじゃないだろうな!)

 獅子王はむっとするが、歌川に止められる。

「一年生同士の交流に口を挟むんじゃないよ。獅子王」

「だが、しかし……」

 優はにやにやと笑ったまま「曉~。お前さ。なんだかんだ言って。結構、七音が気に入ったんだろう?」と言った。

「お前との決闘、受けて立つーって頑張ったんだからな。七音はファイトがある!」

 曉は顔を真っ赤にして「うっせー」と怒るばかりだった。隣にいる陽斗も「おれも決闘する! だから教えてくれ、師匠!」と頭を下げている。

「誰が決闘するかよ。あー、あー。こんな時間も無駄なんだからな!」

 二人に頼られて、曉はまんざらでもなさそうだ。中学校で部長をしていただけのことはある。彼は課題曲集を取り出すと、三人を見渡した。

「来週から合奏に混ざるつもりなら、今日からビシビシしごく。おれたちトップは他のパートから随分と遅れているだろうからな」

「誰のせいだよ」

 優の突っ込みに、曉は「うるせえ」と言った。

「おれのペースについてこられない奴はおいていく。自主練も覚悟しておけ。さあ、始めるぞ!」

 曉の掛け声に、三人は「おっす」と返事を返すと、練習を始めた。獅子王は歌川に腕を引かれて練習室を後にする。

「今年の女王陛下も、いいお仲間を手に入れたようだね」

「いいのかどうかはおれが判断する! くそ。矢吹の奴。おれのほうが上手く教えられる」

「音程だけで言ったら、矢吹のほうが正しいよ。獅子王は感覚で歌うから。七音に間違った音を教えかねないね」

「歌川!」

「ほらほら。おれたちも負けずに練習、練習」

 練習室の扉に嵌められている硝子越しに見える七音の横顔を見た獅子王は、「まあ、いっか」と笑みを浮かべた。

(七音が幸せならそれでいい。それでいいんだ……)






 

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