第18話 決闘
「
「
「ああ、違う。ほら、楽譜を指で追ってごらんよ。
「
優は頭を掻きむしった。彼に悪いことをしているのはよくわかる。七音は気持ちが沈んだ。
「ご、ごめん。本当に、ご、ごめん」
優は「いいって」と軽くため息を吐いた。
「さあ、もう一回やろうか」
七音と陽斗は申し訳なさそうに「お願いします」と言った。しかし——。
「ああ、こんなんじゃ、いつまでたっても先輩たちと一緒に歌えないじゃないか!」
七音たちの様子を見ていた曉は、苛立ったように声を荒上げた。
「そう怒るなよ。お前だって初心者だった時があるだろう? 基本は丁寧に時間をかけて覚えていかないと……」
優は言い返すが、曉は「うるさい」と叫んだ。
「それにしたって覚えが悪すぎだろう? 一小節進むのに、何時間かかるんだよ? こんなんじゃ、コンクールが終わっちまうだろう? 特に、こいつ」
七音をキッと睨んだ曉は「こいつは、言葉もうまく話せないから、音符も読めないんだろう?」と吐き捨てた。優はいつもの笑顔を消し、眉間に皺を寄せたかと思うと、抗議の声を上げた。
「そういう言い方は——」
しかし、七音はそれを遮る。それから、優の前に歩み出てから、曉に頭を下げた。
「な、なんだよ」
「ごめん。あ、足引っ張って……。自分でも、れ、練習してくる」
「初心者がどうやって練習するっつーんだよ! ああ、話になんねーな。こんな子どものごっこ遊びみたいなのにつき合っていられるかよ!」
騒ぎが大きくなったその時。レッスン室の扉が開いて、歌川が顔を出した。
「こらこら。喧嘩するなって言っているだろう」
「でも先輩。無理っす。おれ、こいつらと同じペースで練習していたんじゃ、面白くないです。譜読みは終わりました。おれだけ、先輩たちの合奏に入れてください。お願いします!」
曉は歌川に頭を下げる。彼は困ったように右手を腰に当てるとため息を吐いた。
「矢吹。確かにお前は出来上がっているのかも知れないけれど。仲間との足並みを揃えることも必要なんだ。出来上がったのであれば、なぜ同じパートの仲間に教えようとしない」
歌川の凛とした声に、曉はたじろいでいた。体格的には曉のほうが勝っている。しかし。彼のまっすぐな視線に射られると、そこにいる誰もが動くことができない。
「それは……」
「奢るな。お前は他の新入生よりも抜きんでて上手い。それは認めよう。しかし、我ら合唱部では、統率を乱す人材は必要としていない」
曉は顔色を青くした。それから、「ち」と舌打ちをして視線を逸らした。歌川は少々瞳の色を緩めてから、声色を変えて「矢吹」と彼の名を呼んだ。
「我々は経験者だろうと、未経験者だろうと、一緒に歌いたいと思ってくれる人間を歓迎している部活動だ。お前の仲間はこのトップテナーの一年生たちだろう。その仲間と一緒に歌うつもりはあるのか。返答次第では、お前をここに置いておくことはできない」
歌川の冷たい視線に、曉の顔色は青ざめていた。
「気持ち? 気持ちだけでうまくなるんだったら、誰だってうまくなります。おれは。ずっと努力してきたんだ。ずっとだ。中学校の時だって。誰よりも練習してきた。それなのに。昨日、今日始めたやつと一緒にされるなんて心外です!」
(曉の言い分はわかる。それは当然のこと。曉はずっと頑張ってきたんだね)
七音への不満ばかりを口にしてきた彼が。初めて本音を口にしたのだ、と七音は思った。彼の悲痛な言葉に、七音は心を大きく揺り動かされた。
肩で息をし、興奮している彼の声に、他の部員たちが「なんだ、なんだ」と顔を出す。
「おれは——。ずっと、ずっとここに入りたかった。それだけを目指して、今日まで頑張ってきたんだ。それなのに……。なんだよ。なんなんだよ……。こんな。歌えない奴より、おれを切り捨てるって言うんですか!?」
曉の目尻には涙が浮かぶ。七音は喉に言葉が詰まってしまったように、苦しくなった。
(僕は。安易だった。浮かれていたんだ。獅子王先輩に甘やかされて。きっと。できなくてもなんとかなるって。甘い考えだったんだ)
彼になんと声をかけたらいのかわからない。けれど、自分はなにかを伝えなくてはいけないと思った。その時。
歌川の肩に大きな手が添えられた。そこにいたみんなが驚いてその人物を注視した。
「そこまで、そこまで。これ以上はよくないね」
そこに立っていたのは、顧問の北部だった。
「先生……」
「歌。そう責めるな。矢吹には矢吹の葛藤があるのだろうから」
「しかし」
北部は歌川を後ろに遣ると、練習室に足を踏み入れた。それから、うつ向いている曉と、七音の間に立つ。
「キミたちは互いに心に引っかかるものがあるみたいだね。矢吹だけではなく。七音にもね」
北部の問いに、七音は驚いて顔を上げた。曉は「面白くありません」と言った。
「こんな。楽譜も読めないくせに。みんなにちやほやされて。本当にやる気があるのかどうか疑問です。歌えないのだって、甘えているようにしか見えません」
七音は息を飲んだ。それが曉の本心。薄々はわかっていたというのに。こうして言葉にされると、心に突き刺さった。けれど、だからこそ。引いてはいけない、と思ったのだ。七音は一歩前に出ると、北部を見上げた。
「そ、そ、それは。楽譜も読めない、し。歌も、は、初めてで、優に迷惑ばっかり、か、かけているかも知れない……けれど。ぼ、僕だって……み、みんなと歌い、たい。こ、ここで。みんなと……あ、曉みたいに、うまく。歌い、たい」
曉は少々驚いた様子で七音を見ていた。確かに、自分の気持ちを言葉にするのは苦手だ。今まで言われたまま、そのまま黙ってやり過ごしてきた。けれど。譲れないことだってある。
「ちゅ、中学校の頃から、ず、ずっとやってきた人の足元にも及ばないことは、わ、わかっている。けれど……。う、梅沢高校合唱部の一年生としてみたら、ぼ、僕たちは同じ、じゃない」
「同じなわけあるかよ! 何日も練習しているのに、ちっとも進まないじゃないか」
「そ、それは——。謝る、けど……。けど」
そこまでのやり取りを見ていた北部は「はいはい、終わり」と両手を鳴らした。
「オッケー。わかったよ。二人の言い分はわかった。矢吹の気持ちもわかるし、七音もやる気もわかった。どうだろうか。ここは互いを認め合うことができるように、勝負といこうじゃないか」
(勝負!?)
「七音は、少しは音、取れたのかな?」
北部の問いに優が答える。
「最初のワンフレーズだけです。しかも、なんとかってレベルですけど」
「おー。それは確かに遅いかもね」
北部は苦笑する。七音は恥ずかしくなって俯いた。
(曉に勝てるわけないんだ)
なんだか涙が出そうになった。心が興奮しているのだ。他者と言い合いをしたことなどない。心臓がまるで耳元についているみたいに、鼓動が激しい。北部や他の人たちの声がよく聞こえなかった。
「いいよ。じゃあ、そのワンフレーズを歌おうか。先攻は矢吹ね。ベテランなんだから、そのくらいはいいでしょう?」
「構いません」
曉はまるで七音を見下すように視線を寄越す。どうしたらいいのかわからずに、ただ黙ってそこに立っていると、「ちょっと待て!」と重低音が響いた。練習室周囲にできていた人だかりを押し退けて、獅子王が声を上げたのだ。
「先生! そんな無謀な勝負、おかしいと思います」
「無謀かな?」
「無謀です! 矢吹は経験者。七音は未経験者です。しかも音取りのペースだって違い過ぎるんだ。そんな中で勝負ができるとは思えません!」
獅子王の目は怒っていた。七音は息を飲む。彼の怒りのオーラは、その場の誰もを黙らせる威圧感がある。しかし。北部は飄々とした態度で首を傾げた。
「そうだろうか。だからワンフレーズにしたんじゃない。僕はいい勝負になると踏んでいるんだけどね」
「納得できない! おれは納得できない!」
獅子王は今にも北部に掴みかかりそうな勢いだった。「やめろ!」と有馬が間に入るが、それは収まる気配はない。
七音は慌てて、獅子王の腕にしがみついた。そこでやっと我に返ったのか。獅子王は七音を見下ろした。
「や、やってみます」
「七音……」
「僕、に。やらせて、ください」
彼の目は必死に七音を見上げていた。
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