第17話 父親の秘密


(もう、駄目かもしれない。辞めたほうがいいのかもしれない)

 今日も曉に怒られた。優がかばってくれるのが、余計に申し訳ない気持ちになる。みんなに迷惑をかけているのだ。自分と曉が揉めるほど、優や陽斗の時間がなくなることも理解している。

(先輩には申し訳ないけど。僕、やっぱり合唱部でうまくやっていく自信がないな)

 明日。北部に退部の話をするしかない。七音の気持ちはそちらに傾いている。獅子王に相談をしたら、絶対に引き留められるだろう。優だってそうだ。けれど、それは甘えだ、と思っている。二人にはもう甘えられない。限界なのだ。

「た……だいま……」

 小さい声で呟いて、玄関の扉を閉めると、珍しく父親の靴が置いてあるのに気がついた。残業の多い人だ。この時間に家にいるのは、滅多にないことだった。

かずちゃん。お帰り」

 中から母親の声が聞こえてきた。七音は、そのまま洗面所へと足を向け、手を洗うと、リビングに顔を出す。対面式のキッチンに立つ母親は、「また暗い顔しているね」と言った。

「部活動、やっぱり変えたほうがいいんじゃないの。別な部活に移ったって問題ないんでしょう」

 七音は「言われなくなって、そうするし」と思いながら、黙って廊下に出た。すると、奥の部屋からクラシック音楽が微かに聞こえてきた。父親の仕事部屋だ。

 小学校の頃は、よく彼の部屋に行っていた。クラシック音楽好きの父親の部屋には、たくさんのCDが置いてあったので、それを見てみたくて、よく忍び込んでいたのだ。けれど、それも昔の話。

 中学校に入学する頃には、それも興味の対象ではなくなり、今ではすっかり、部屋の存在すら忘れてしまいそうなくらいの話だったのだ。

 七音は廊下を奥へと進み、父親の部屋の扉をノックした。

「どうぞ」

 中から彼の声が聞こえる。彼は、デスクの上のパソコンと睨めっこをしているようだった。

「お帰り。部活動かい?」

 七音は首を縦に振る。

「学会に出す書類の期限が迫っていてね。職場では落ち着かないから。今日は早退してきたんだ」

 彼の説明を聞きながら、七音は部屋を眺めまわす。彼の座っているデスクの横の壁際には、七音の身長よりも高いCDラックがおかれ、クラシックのCDがぎっしりと詰め込まれていた。

(ビクトリア。あるのかな)

 今日も失敗続きだった。同じ初心者の陽斗は、だんだんと楽譜を読むコツをつかんでいるというのに。自分はさっぱりだ。優がつきっきりで楽譜の読み方を教えてくれるのだが。体に入り込んでこない。うまく声にならないのだった。

 すると、曉が口を挟んでくる。こうなってしまうと、練習どころではない。花見から一週間以上が過ぎるというのに、ちっともうまく歌えない自分は、やっぱり不適格なのではないかと思っていた。

「合唱部では、どんな曲を歌っているんだい?」

 七音の視線に気がついたのか。父親はそう尋ねてきた。七音は、リュックを下すと、そこから楽譜を取り出した。

「ビクトリアだね」

「し、知ってる?」

「知っているよ。ちょっと待って……」と父親はCDラックを眺めてから、「あ、これだね」と一枚のCDを取り出した。曲目を見ると、そこには、七音が歌う予定の課題曲名が書いていった。

O Magnumマニュム Mysteriumミステリウム——大いなる神秘よ。キリスト誕生の奇跡を歌った声楽曲モテトだ。トマス・ルイス・ビクトリアはルネサンス時代の有名なスペインの作曲家だね」

 七音の父は目を輝かせる。

「この曲はね。処女であるマリアからキリストが生まれるという奇跡をうたった曲だ。ビクトリアの若き頃の作品なんだけど、ほら。見て」

 父親は課題曲をめくって、後半部分を指さす。

「前半のミステリアスな雰囲気とは対照的に、ここからは急に躍動感あふれる展開になっているのが評価されている曲でもある。へえ、偉大なる鴨田先生のアレンジだね」

 彼は夢中になって楽譜を眺めているようだった。七音はそれをただ黙って見つめた。こんなにも父親が合唱曲に精通していたなんて知らなかったのだ。彼の目は、まるで少年のように輝いている。

「この時代は拍子とういう概念がなかったんだ。だから、小節を区切る線が書かれていないだろう? 歌うときはね。拍子をとらない。ただ音を追って、流れるように演奏する。それがポイントだね」

 そもそも、音楽をやったこともない七音からしたら、それがどんな意味を成すのか、ちっとも理解できない。けれども、父親は一人で唸ったり、楽譜をめくったりして、ブツブツとなにかを言っていた。

「おおおお、これはなんだ、なんだ。神崎奈々の直筆の楽譜だと!? すごいね。委嘱楽曲か。幾ら払ったんだろう。オーケストラよりは手間がかからないから、幾分お安くなるのかな」

 父親の暴走は止まらない。七音は「あの」と大きな声を上げて、それを遮った。彼は、我に返ったのか。「これは失礼」と笑った。

「が、合唱。く、くわ、しいんだね」

「そうなんだよ。誰も聞いてくれないんだけどね。父さん、これでも全国大会に行ったこともあるんだ。七音の大先輩だからね」

「え!?」

 彼は嬉しそうにウインクをして見せた。

「そうだよ。梅沢高校の合唱部だったんだ。独唱ソロもやったんだから」

(嘘ー!?)

「な、な、なんで。教えて、く、くれれば、よかったのに」

「誰も聞いてくれないしね。本当は、七音が合唱部に入るって聞いて、嬉しかったよ。大丈夫。七音。父さんの血を引いているんだから。自信を持って歌えばいい」

(そんなこと言われたって……)

「なにかわからないことがあったら、父さんに聞いてもいいよ。教えられることは教えるから」

 七音は課題曲集を開く。優や曉は、もうすっかりソラで最後まで歌えるというのに。七音が歌えるのは、最初のところだけだった。それだって、うまくはいかない。音程がよくわからないのだ。楽譜の意味はわかっても、音に結びつけるまでの作業が難しいらしい。

「と、父さんなら。こ、ここ、どう、歌う?」

「どれどれ」

 父親は楽譜を眺める。

「O Magnum Mysterium.ここは対訳が『おお、大いなる神秘』だよね。最初は感嘆の言葉だ。だから、入ったら少し抜く。それから、新しい単語が始まるところは、少しはっきりと言葉を入れる。アクセントの場所をコントロールするだけで言葉が鮮明に浮きあがってくるよ。音程なしで、言葉だけ言ってごらん」

 七音は頷くと、歌詞を口にした。歌詞と言っても、日本語のように、意味を理解して使っている言語ではない。七音にしたら、それは「音」。そのせいか、歌詞を口にするときは、いつもの吃音症状が出なかった。

「オー」

「そこ。オー、って乱暴に伸ばすんじゃないよ。オォってさ。ほら。力抜いて」

 七音は何度も何度も繰り返し声を出した。そのうちに、なんとなく、その言葉の抑揚が理解できたが、いざ音程をつけてみると、それはとてつもなく難しい作業だった。

 七音が小さいころに遊んでいた電子キーボードを持ち出してきた父親は、最初の音を弾くと、不意にそのフレーズを歌った。

 彼の歌を、七音は聞いたことがなかった。「久しぶりでダメだね」と笑った父親だったが、彼の歌声は、七音のからだに自然に入り込んできたのだった。まるで北部のテストを受けたときの感覚だった。

 楽譜で音符や言葉を追っているときには、ちっともわからないものが。瞬時にからだに入ってくるのだから不思議だった。

「やってごらん」

 七音は頷く。それから、父親の歌を真似て歌ってみた。

「歌っていうのはね、音と言葉が一体となる。アクセントをどこに置くか。作曲家も考え抜いて作っているんだから。そこを捉えるのが必要だ。歌い手は作った人の意思を尊重しなくちゃ」

「さ、さ、作曲家の、意思?」

「そうだ。時も場所も超えて、ビクトリアの意思が、今まさに。七音の手の中にあるんだ。それを読み解き、形にするという作業を、お前はしなくてはいけないのだよ」

(奥が深い……)

「そういうことだね」

 父親は七音の心の中を読んでいるかのように笑った。

(歌うってことは、作曲した人の思いをみんなに伝える作業。とっても尊い。それでいて、難しい。けれど、難しく考えすぎるのもよくないってこと)

 すると、そこに奏が顔を出した。

「男二人でなにやってるんだか。ご飯だからって。お母さんが」

「お腹すいたな。七音」

 父親は嬉しそうに笑みを見せた。七音も頷く。

「さっさとして。冷めちゃうでしょう?」

「はいはい」

 父親に促されて、七音も彼の部屋を後にした。優や曉とも違う。陽斗とも違う。自分は自分のやり方で歌うしかない。そう思ったら、少し気持ちが軽くなる気がした。

 帰宅の間。ずっと考えていた「退部」という文字は、すっかり頭から消えていた。

(大丈夫。獅子王先輩。僕、もう少し頑張ってみます)



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