第16話 女王の試練
音楽室の隣には、顧問の北部が私物化している音楽準備室がある。準備室には、壁一面に楽譜を収納しておく本棚が設置されているだけ。管弦楽部と違って、楽器などを収納するわけではないので、殺風景な場所だった。
窓際に置かれている事務机が彼の仕事場所。その隣には電気ポットが設置され、インスタントコーヒーと紙コップが置かれている。その反対側には、電子キーボードがあった。
獅子王たち役員は、よくその場所でミーティングを行っていた。今日も、授業が終わり、役員たちが準備室に集まってくる。
部長兼ベース・パートマスターの獅子王。
副部長兼トップテナー・パートマスターの歌川。
学生指揮長兼セカンド・パートマスターの有馬。
バリトン・パートマスターの保志大介。
二年生の副部長である比佐。
二年生の副学生指揮長である堀切。
この六名だ。獅子王は窓際の椅子にどっかりと腰を下ろし、役員たちが会話をしている様子を眺めていた。
「今年の新入生の出来はどうだ」
有馬は新入生の進捗状況について気にしているようだった。その問いに、答えたのは保志だった。
「今年は特に経験者が多いから。問題なさそうだ。初心者も数名紛れてはいるけれど。害になるほどではないだろう」
「経験者が多い分、おれたちの手を借りずに自分たちで楽譜の書き込みや音取作業をしてくれるから助かるね」
歌川は同意をした。しかし、有馬が「それにしても、トップは問題だな」と声を上げる。
「1年生が仲違いしているという話じゃないか」
「それは……」
歌川は比佐を見た。彼は「そうなんっすよ」と頭を掻いた。
「附属中で部長やっていた矢吹曉が、女王陛下のことをお気に召さないようで。まあ、ともかく毎日のように篠原七音に突っかかるんですよ。それで四人で揉めて、騒ぎが大きくなると、矢吹が早退するってパターンを繰り返しています。今のところ、篠原は黙っているみたいですけど。ああも毎日のように嫌味を言われ続けたら、そのうちに、ドカンと爆発しそうですね」
「おい。歌川。どうするつもりだよ」
保志は歌川を見る。彼は険しい表情のまま「静観する」と答えた。
「お前。最初が肝心だろう? 介入するつもりないのか」
「まだ。……だね。その時期ではないと思う」
「その時期ではないってさ。じゃあ、いつなんだよ」
「それは……。わからないけれど。一年生の問題は一年生同士で解決することを学ばないと。いつでもおれたちがいるわけではない」
「おい」
二人のやり取りを見ていた獅子王が溜まらず口を挟んだ。
「おれが話す。輪を乱されるのは困るからな」
(くそ。矢吹って奴。とっちめてやる! なんで七音に……)
獅子王は片手を握ると、もう片方の手を叩いた。有馬は「お前は黙っておけ。暴力沙汰は困る」と眼鏡をずり上げた。
「心配するな。平和的解決に至るように善処する」
「信用なるか。それに、これはトップの問題だ。パート内の問題はマスターである歌川が解決する。これが鉄則だ」
「なにをいう。パートなど関係ない。部員はみなおれの管轄だ」
獅子王と有馬は睨み合う。保志が「七音が関わっているからって。熱くなるな」と間に入るが、獅子王は「そういうわけではない」と低い声で言った。
「おれは部長だぞ。私利私欲で動くと思われているとは。随分と舐められたものだ。部内の揉め事ならば、おれは誰であろうと介入する」
獅子王は保志を睨みつけた。三者は睨み合いを続ける。しかしそれは長くは続かない。「はいはい。終わりにして」と歌川が割って入ってきたのだ。
「悪いけど、部外者は黙っていてくれる? これはトップの問題だから。おれが、おれの裁量で今回の件はやらせてもらう。それに、これは七の女王である七音への試練だ。彼自身が、解決していかなくてはいけない課題でもある」
歌川はきっぱりとそう言い切った。
「女王に指名された生徒は、どの部活に入っても嫉妬の対象になるものだよ。七音は、それを乗り越えて、自らの仲間を獲得しなければならないんだ。矢吹も、七音も。同じ道を歩む仲間とならなくてはいけない。いつまでも仲違いをしている立場ではないってことを、両者が理解するべきなんだ」
彼は獅子王に釘をさすように視線を向けてきた。
「いいね。彼の教育はおれがする。獅子王は黙っておいて」
「しかし——」
(そうは言っても。心配だ)
昨日。廊下でトップテナーの一年生たちを見かけた。曉は終始、七音へ冷たい視線を向けていた。いつも自信がなく、不安げな七音の瞳は、怯えて色あせていた。優や陽斗がなんとか雰囲気を盛り上げようとしているのが、痛々しく見える。
獅子王は唇を噛みしめた。歯痒い。なにもできないということがもどかしい。
(おれのパートだったら。おれが守れるのに)
苛立ち。焦燥感。そんな気持ちに支配されていた。しかし。突然に準備室の扉が開いた。
「おー。やってるねえ。お疲れさま。コーヒーでも飲むかい?」
この部屋の主である北部が顔を出したのだ。
「先生。お疲れ様です」
一同が頭を下げると、彼は自分の席にすっと腰を下ろした。
「深刻な顔をしているみたいだね」
「ええ。一年生がちょっと——」
北部はにっこりと笑みを見せた。
「よくあることだね。その内、忙しくなりすぎて、人のことを構っていられる場合じゃなくなるよ」
北部はとぼけたように肩を竦めて見せた。それから比佐と堀切を見る。
「お前たちも色々あったものね」
「まあ、なにもなかったわけじゃないっすね」と比佐は笑う。
ホットコーヒーをすすりながら、北部は「それよりもね」と言った。
「楽譜の変更がある。今日は合奏時間前に集まってもらえるかな」
(楽譜の変更だって?)
そこにいたメンバーたちは顔を見合わせた。一年生のいざこざを話題にしている場合ではなくなったのだ。
「変更って……」
「神崎先生に出していたオファーの回答が来た。今年は逸材が揃っているみたい。一年生にも優秀な子がちらほら見えるからね。——今年は、天下取りに行くよ」
いつもは穏やかな灰色な瞳が、キラリと光る。獅子王の背中がゾクリとする。そう。北部という男は、ただ穏やかな人物ではないということ。音楽に駆ける情熱は、誰よりも熱い。
「わかりました。合奏の15分前ではどうでしょうか」
「いいね。頼むよ。獅子王」
「それじゃあ、おれたちも練習に向かいます」
「そうだね。いってらっしゃい」
獅子王の声を合図に役員たちは準備室を出た。廊下に出ると、ふと歌川に名を呼ばれる。
「獅子王。お願いだから、七音を信じてあげて」
彼はそう言った。
「なにを。おれはあいつを信じている」
「なら。黙ってみていてあげて。あの子は必ず大丈夫だから」
歌川は、ふと瞳を細めてから姿を消した。
(信じているさ。もちろん)
「おれはただ。不甲斐ない自分に嫌気がさしているだけだ」
窓から覗く青い空を仰ぎ見て、獅子王は唇を噛みしめた。
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