第3章 決闘
第15話 仲違い
新入生歓迎会が終わると、本格的に練習が始まった。七音は優と一緒にトップテナーパートに振り分けされた。トップテナーには比佐がいる。なんとなく気まずい気持ちになったが、比佐は七音を振ったなどとは微塵も思っていないだろう。気まずいのは自分だけの問題と、覚悟を決めて、七音は第1練習室に足を踏み入れた。
しかしそこには先輩の姿はなかった。いるのは副部長であり、トップテナーを取りまとめているパートマスターの歌川だけだ。
七音と優に続いて姿を見せたのは、同じ一年生の矢吹曉と、榊
「全員揃ったね。ここにいる四人が今年のトップテナーの一年生ってことになる」
四人は歌川の目の前にパイプ椅子を並べて横一列に座らされた。彼は抑揚のない調子でそう言ったかと思うと、四人に二冊の楽譜を配布した。
「空色の表紙が課題曲集。ホチキス止めのものが自由曲になる。まずは、課題曲集を開いてみて」
歌川に指示されて、七音たちは「全国合唱コンクール課題曲集」と印字されている楽譜をめくった。表紙の裏には、目次が載っている。
歌川は「課題曲は、この中から一曲を選んで歌うことになっている」と説明してくれた。
「おれたちは男声合唱だから、Mのついている楽曲四つの中から選ぶことになる。M1、M2は、宗教曲や海外の作曲家の作品。M3、M4の2曲は、邦楽作曲家の作品だ。北部は海外曲が得意だから、日本語の曲をコンクールで歌うことは、まずない。今年はM1を課題曲として選定している」
七音たちは指定されたページを開いた。M1と書かれたページを開くと、まるで読めない言語が書かれていた。七音は息を飲むが、隣にいた優は「ビクトリアですね」と言った。それから、その隣にいる曉も「この曲。混声なら歌ったことありますけど」と答えた。歌川は「頼もしい新入生だね」と頷いた。
「附属中学校の合唱部は強豪だからね。こうしてうちに入ってくれると、本当に助かるよ」
(そうだ。優や曉は、僕よりもずっと先を歩いているんだ)
「それから自由曲だ。こっちは梅沢市出身の作曲家に、委嘱で書いてもらった新曲だよ。手直ししてもらいながらの演奏だから、手書きのものになる。見にくいかも知れないけど、我慢して」
ホチキス止めの楽譜は、確かに手書きだった。
「え、これって。神崎奈々じゃないですか? すっげ!」
ホチキス止めの楽譜を眺めていた優は、驚いた声を上げた。
(神崎、奈々?)
「そうだよ」と歌川は答える。
「定期演奏会で歌うのが初演になるからね。ネットで音源探しても出てはこないよ。歌詞は一般的なミサ曲の歌詞だから、二人には難しくないと思うけれど。転調が頻繁にある。音取の時に注意して」
優たちは「わかりました」と頷いた。しかし、七音と陽斗は顔を見合わせるばかりだ。三人の話している内容が、一つもわからないからだ。
そんな二人を交互に眺めた歌川は、眉一つ動かさずに一枚の紙を手渡した。
「歌詞は、ミサの時に使用される一般的なものだ。ラテン語だよ。読み方と、日本語訳が書いてあるから。楽譜にどちらも書き加えて覚えてくるように。鯨岡と矢吹は二人によく教えること」
優と陽斗は「はーい」と手を挙げるが、曉は黙ったままだった。七音は軽くため息を吐く。
(よりにもよって彼と一緒……。うまくやれる気がしない)
「もう2、3年生たちは音取りを終えて、曲作りに入っている。遅れているのは仕方ないことだけど、早く追いつけるように努力するように。今日はとりあえず、ここで楽譜の書き込みをしたら帰っていいよ」
歌川は自分の課題曲集と、自由曲の楽譜を曉に手渡した。
「おれの楽譜を見て、同じように書き込みして。そうすれば、あとから見てもよくわかるだろうから。残り1時間。さっさと仕事しようか」
彼は腰を上げた。各パートの新入生たちは、練習室に分かれて入れられて、同じことをさせられているようだった。
歌川は練習室を出ようとして「あ、そうだ」と振り返った。
「くれぐれも喧嘩しないように。合唱はチームワークだから。歌えなくても怒らないけど、喧嘩したら、ただじゃ済まさないからね」
歌川は瞳を細めたかと思うと、すっと練習室から姿を消した。背筋が凍るようだった。
(氷の女王って言ったっけ。怖い先輩だ。七の女王のことを、いろいろと聞いてみたいけれど。声をかけたら、怒られそうだな……)
じっと歌川が消えた扉を見つめていると、曉が「ぼけっとしているなよ」と、七音を睨みつけた。
「そういう言い方ないだろう?」
珍しく優が怖い顔をしたが、曉はお構いなしの様子で言った。
「本当、やってられねーんだけど。なんで、お前がトップなわけ? おれは認めないから。なにが七の女王だよ。この初心者が。楽譜も読めないんだろ?話になんねーな」
「そ、それは——」
「それに、その話し方。そんな言葉に詰まっちゃって。そんなんで、歌が歌えるのか?」
「曉!」
人にきついことを言われるのは慣れっこだ。慣れっこなはずなのだが。獅子王や優に甘やかされた時間は、とても心地いいということを知ってしまったのだ。
曉の言うことは最もなのだ。自分でも同じことを思っているのだから。けれど、それを他者から突きつけられると、心が傷ついた。
「本当のことだろう? じゃあ、ここで。今すぐ。なんか歌ってみろよ」
曉は、不意に七音の肩を突き飛ばした。バランスを崩し、七音は椅子に座り込んだ。
「喧嘩するなって言われたばっかりだろう!」と陽斗が間に入る。四人は互いに視線を合わせ、膠着状態で沈黙した。その沈黙に耐え切れなかったのか。曉は舌打ちをすると「おれ、帰る」と言って練習室を飛び出して行った。
残された3人は互いに顔を見合わせた。優が「仕方ないよ」とため息を吐いた。
「あいつ。中学校時代部長でさ。合唱に対する思いだけは、人一倍強いんだよ。それに、獅子王先輩の崇拝者みたいなもんだから、七音がかわいがられているのが面白くないんだと思う。あ、七音が悪いわけじゃないんだよ。曉の事情ってやつだから」
優は「けど、悪い奴じゃないんだよ」とつけ加えた。優と曉は中学時代から、苦楽を共にしてきた間柄だ。いい部分も悪い部分も知っている、ということなのだろう。
しかし七音が出会った曉は、とても「悪い奴じゃない」ようには見えなかった。
すると、不意に「参ったな~」と陽斗が短く切りそろえられた頭を撫でた。
「なんか、高校の部活動って本気なのな。おれ、ちょっとそういうつもりなかったからさ。初心者でも大丈夫かな……」
弱気な発言に、優は手を打ち鳴らした。
「大丈夫。大丈夫だよ! 二人の面倒はおれが見るから。ほら。出て行った人は放っておいて、楽譜の書き込みをしよう」
優はにっこりと笑みを見せる。不安な気持ちになっている七音と陽斗は視線を合わせると、小さく頷いてから、楽譜への書き込みを始めた。
(今はできることをやる。それしかない)
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